追放された調香師の私、ワケあって冷徹な次期魔導士団長のもとで毎日楽しく美味しく働いています。
124.香水の名前に願いを込めて
シルヴェリオが話している間、緊張しているフレイヤは、自分の胸の前で手をぎゅっと握り、気を紛らわせようとする。
しかし、上手くいかなかった。 自分から言い出したこととはいえ、人に嘘をついていると、罪悪感が押し寄せてくるから落ち着かないのだ。
もともと嘘を吐くことが苦手なフレイヤにとって、とても苦しい時間となった。
それに、嘘を見破られてしまわないか、不安でもある。
(シルヴェリオ様が立ててくれた計画だから、きっと上手くいはず……!)
そう思っていても、つい緊張してしまう。
落ち着かない気持ちを持て余しつつ隣にいるシルヴェリオの横顔をじっと見つめていると、不意にシルヴェリオと目が合った。
突然のことに驚いたのか、シルヴェリオは深い青色の目を大きく見開いた。しかし、すぐに柔らかく細めると、微かに口元を上げて微笑んだ。まるで、フレイヤを安心させようとするかのように。
ざわり。
その時、周囲からどよめきの声が上がった。
「コルティノーヴィス卿が最近笑うようになったと聞いていたが、都市伝説だと思っていた」
「俺もだ。討伐で何度か顔を合わせているが、いつも仏頂面か無表情だから、笑っていると別人のように見えるな」
騎士たちの囁き声が、フレイヤの耳に届く。
振り向くと、二人の騎士が口をぽかんと開けてシルヴェリオを見ていた。よほど衝撃を受けたのだろう。
(そういえば、魔導士の方たちも、シルヴェリオ様が笑っていたら驚いていたような……)
火の死霊竜に祈りを捧げるために遠征した時のことを、ふと思い出す。
たしかに出会ったばかりのシルヴェリオはあまり笑わない人だったが、一緒に過ごしていくうちに度々彼の笑顔を見るようになった。
出会って一年足らずのフレイヤにとっては、打ち解けたから笑ってくれるようになったのだろうといった感覚だったのだが、どうやら長年一緒にいる仕事仲間にとって、かなり珍しい表情のようだ。
(もしかすると、魔導士の仕事の最中は、仲間や部下たちを守るために集中しているから、笑う余裕がないのかもしれない……)
討伐に危険はつきものだ。討伐対象である魔獣は魔法を使えるし、鋭い牙や毒を持つ爪などを使って攻撃してくることもある。
そんな魔獣たちが住む場所へ赴いて戦うのだから、真面目なシルヴェリオは己の責務を果たすために全力で挑んでいるに違いない。
そのようなことを考えていると、シルヴェリオはフレイヤから視線を外して、またネストレと向き合う。その横顔は、いつも通りのぶっきらぼうなものだった。
やがてシルヴェリオが状況説明を終えると、ネストレがようやく口を開いた。
「……実は、馬車の中でアーディル殿から、自身の正体や祖父と叔父の陰謀、それにオルメキア王国の宰相が関わっていることについて聞かせてもらっていた。その陰謀が、アイリック殿を使った謀略だということもな。己の欲望の為にアイリック殿の人造人間を作ろうとしているなんて、あまりにも残忍で卑劣だな。それに、我が国でそのような非道な取引を行おうとしているなんて見過ごせない。今すぐにでも国王陛下と兄上に事の次第を話して手を打たねばならないな」
ネストレは言い終えるや否や、連絡の魔法の呪文を唱えた。魔法で作られた水色に光る鳥は、ネストレの腕に止まって可愛らしく小首を傾げている。
よほど長い伝言を託そうとしているようで、鳥はすぐには飛び立たなかった。
「頼んだぞ」
伝えたい内容を全て魔法で鳥に託したようで、ネストレが鳥に話しかける。鳥は返事こそしなかったが、ネストレの言葉に応えるように翼を広げて飛び立った。
鳥を見送ったネストレは、視線をラグナへと移す。
「オルメキア王国の国王陛下と王妃殿下にお会いするのは気まずいでしょうから、お二人はイェレアス侯爵家の屋敷に滞在するよう手配しました。あそこはエイレーネ王国の中では王宮の次に安全な場所です」
「……お気遣い痛み入ります。父も母も宰相を信じ切っているので、私の話に耳を貸してくれないのです。実の両親にも頼れない状況で、不安でいっぱいでした。本当に、ありがとうございます」
礼を言うラグナの声が微かに震えている。
フレイヤは、はっとしてラグナを見た。
弟を守るために決心して突き進んできたように見えていたが、本当は不安に押しつぶされそうになりながらも必死で抗い、ここまで来たのだろう。
そんな彼女の努力が報われるよう、力になりたい。
(他国の貴族たちを相手に、私ができる事なんてないのかもしれない。だけど、私がカルディナーレ香水工房をクビにされて絶望していた時にシルヴェリオ様が助けてくれたように、私も二人を助けたい)
とはいえ、強敵を相手に太刀打ちできるような魔法の実力があるわけでもないし、仮に対峙した時のことを考えると、とてつもなく恐ろしくて震えそうになる。
それでも、フレイヤは何度も自分に言い聞かせ、委縮しそうになる心を奮い立たせた。
***
ネストレが国王に手紙を送ってから二時間ほどすると、屋敷の外で待機していた騎士がジュスタ男爵を連れて部屋を訪ねてきた。
連絡を受けた国王が、ジュスタ男爵を派遣したのだ。
ラグナたちがオルメキア王国――魔法に長けた者が多い国の宰相から逃れていると知り、もしも宰相の手の者に襲撃されても対応できる人選をしたようだ。
「話は国王陛下から伺っています。イェレアス侯爵家の屋敷までの道中、必ずお守りいたしますのでおまかせください」
ジュスタ男爵は右手を胸に当てて跪き、ラグナとアイリックに最上位の礼をとった。
「日が暮れる前に到着するよう、急ぎましょう。宵闇の中から狙われると厄介です」
そう言って、ジュスタ男爵がラグナをエスコートするために手を差し出した。ラグナはその手に自分の手を重ねようとして、ぴたりと止まる。
どうしたのだろうと不思議に思ったフレイヤが見守っていると、ラグナはくるりと踵を返して、フレイヤに駆け寄ってきた。
「えっ……?」
フレイヤが驚きのあまり声を零していると、ラグナがフレイヤの両手を握る。
途端に、フレイヤは両手にほわりと温かな魔力を感じた。
「フレイヤさんに精神干渉防御の魔法をかけたわ。そもそも精神干渉魔法を使うことは禁忌とされているから、不要かもしれないけれど……攻撃魔法や物理攻撃の防御魔法は既に他の人がかけているようだから、被らないようにしたわ」
ラグナはチラリとシルヴェリオを見遣る。
その様子を見たフレイヤは、かつてシルヴェリオがフレイヤを心配して魔法をかけてくれたことを思い出した。
フレイヤは全く気付けないのだが、魔導士はかけられた魔法から感じ取った魔力の持ち主が分かるらしいと聞く。
きっと、ラグナはフレイヤにかけられている魔法の術者がシルヴェリオだと気付いたのだろう。
「貴重な魔法をありがとうございます」
「……巻き込んでしまったお詫びよ。本当にごめんなさい。いつか必ず、きっちり謝罪をさせてちょうだい。そして、香水の代金を受け取ってちょうだい」
ラグナがフレイヤからゆっくりと手を離すと、フレイヤの手の中にずっしりと重い革の袋が現れる。隙間からぎっしりと詰まった金貨が見えて、フレイヤは慌てた。
「いくらなんでも多すぎます!」
「そんなことはないわ。その香水のレシピをアイリックの為だけに使ってほしいの。それなら、納得の金額でしょう?」
パチンとウインクをしたラグナは、押し切るように言うと、ジュスタ男爵のもとに戻る。そうして、ジュスタ男爵のエスコートで馬車に乗り込んでしまった。
(ええと……どうしよう?)
想像を絶する大金を手にして茫然と佇んでいると、アイリックが騎士たちに体を支えてもらいながら階段を降りてきた。その後ろには、香水瓶を手に持つリブが控えている。
アイリックはフレイヤと目が合うと、騎士たちに止まるように言った。
彼の視線から、自分に話しがあるのだと察したフレイヤは、急いで駆け寄る。
「ルアルディ殿、改めて、香水を作ってくれてありがとう。あの香り、とても気に入ったよ」
「第一王子殿下がお気に召す香水を作れて安心しました。あの香水も、奇跡を起こしてくれるといいのですが……」
フレイヤは肩を落とす。
アイリックの回復を祈りながら香水を作ったが、アイリックの体に変化はなさそうだ。
そんなフレイヤの様子に、アイリックは優しい笑みを浮かべた。
「奇跡はいつ起こるかわからないものだ。もしも……私が病に負けず生き続けている間に香水を使い切ってしまったら、また作ってくれるだろうか?」
「……っ! もちろんです! ご注文をお待ちしておりますので……どうか、病に打ち勝ってください」
アイリックは返事をしなかった。眉尻が少し下がり、微笑みが寂しさを滲ませる。
絶対に打ち勝つと言わない彼の、密かな諦念を感じ取った。それでも彼は、フレイヤが気落ちしないよう気遣って、奇跡はいつ起こるかわからないと言ってくれたのだろう。
そう思い至った途端、フレイヤは鼻の奥がツンと痛くなって、目元が熱くなるのを感じた。
「あのっ……、第一王子殿下に作った香水の名前ですが、『森への帰路』はいかがでしょうか? 病から回復されて、また第一王女殿下やリブさんと一緒に森を散策できるよう、願いを込めました」
フレイヤは、咄嗟に口にした。
少しでもいいから、アイリックに希望を持ってほしかった。
急に香水の名前を提案されたアイリックは目を瞬かせたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「『森への帰路』か……良い名前だ」
介助のために騎士の肩に回していた手を動かすと、フレイヤの手を取る。
フレイヤがきょとんとしている間に、アイリックはフレイヤの手の甲にキスをした。
「え、ええと……」
突然のことに混乱したフレイヤは、あわあわと狼狽える。
背後でネストレが、「シル、落ち着け!」と叫んでいたのだが、混乱しているフレイヤはネストレが叫ぶ声は聞こえたが、内容まではわからなかった。
「ありがとう、心優しい調香師殿。これから君と出会う全ての人が、君の優しさに救われるだろう」
フレイヤの背後――恐ろしい形相を浮かべるシルヴェリオを見遣って少し苦笑したアイリックは、そう言い残すとフレイヤからそっと手を離す。
そうして、再び騎士たちに介助してもらいながら馬車に乗った。
しかし、上手くいかなかった。 自分から言い出したこととはいえ、人に嘘をついていると、罪悪感が押し寄せてくるから落ち着かないのだ。
もともと嘘を吐くことが苦手なフレイヤにとって、とても苦しい時間となった。
それに、嘘を見破られてしまわないか、不安でもある。
(シルヴェリオ様が立ててくれた計画だから、きっと上手くいはず……!)
そう思っていても、つい緊張してしまう。
落ち着かない気持ちを持て余しつつ隣にいるシルヴェリオの横顔をじっと見つめていると、不意にシルヴェリオと目が合った。
突然のことに驚いたのか、シルヴェリオは深い青色の目を大きく見開いた。しかし、すぐに柔らかく細めると、微かに口元を上げて微笑んだ。まるで、フレイヤを安心させようとするかのように。
ざわり。
その時、周囲からどよめきの声が上がった。
「コルティノーヴィス卿が最近笑うようになったと聞いていたが、都市伝説だと思っていた」
「俺もだ。討伐で何度か顔を合わせているが、いつも仏頂面か無表情だから、笑っていると別人のように見えるな」
騎士たちの囁き声が、フレイヤの耳に届く。
振り向くと、二人の騎士が口をぽかんと開けてシルヴェリオを見ていた。よほど衝撃を受けたのだろう。
(そういえば、魔導士の方たちも、シルヴェリオ様が笑っていたら驚いていたような……)
火の死霊竜に祈りを捧げるために遠征した時のことを、ふと思い出す。
たしかに出会ったばかりのシルヴェリオはあまり笑わない人だったが、一緒に過ごしていくうちに度々彼の笑顔を見るようになった。
出会って一年足らずのフレイヤにとっては、打ち解けたから笑ってくれるようになったのだろうといった感覚だったのだが、どうやら長年一緒にいる仕事仲間にとって、かなり珍しい表情のようだ。
(もしかすると、魔導士の仕事の最中は、仲間や部下たちを守るために集中しているから、笑う余裕がないのかもしれない……)
討伐に危険はつきものだ。討伐対象である魔獣は魔法を使えるし、鋭い牙や毒を持つ爪などを使って攻撃してくることもある。
そんな魔獣たちが住む場所へ赴いて戦うのだから、真面目なシルヴェリオは己の責務を果たすために全力で挑んでいるに違いない。
そのようなことを考えていると、シルヴェリオはフレイヤから視線を外して、またネストレと向き合う。その横顔は、いつも通りのぶっきらぼうなものだった。
やがてシルヴェリオが状況説明を終えると、ネストレがようやく口を開いた。
「……実は、馬車の中でアーディル殿から、自身の正体や祖父と叔父の陰謀、それにオルメキア王国の宰相が関わっていることについて聞かせてもらっていた。その陰謀が、アイリック殿を使った謀略だということもな。己の欲望の為にアイリック殿の人造人間を作ろうとしているなんて、あまりにも残忍で卑劣だな。それに、我が国でそのような非道な取引を行おうとしているなんて見過ごせない。今すぐにでも国王陛下と兄上に事の次第を話して手を打たねばならないな」
ネストレは言い終えるや否や、連絡の魔法の呪文を唱えた。魔法で作られた水色に光る鳥は、ネストレの腕に止まって可愛らしく小首を傾げている。
よほど長い伝言を託そうとしているようで、鳥はすぐには飛び立たなかった。
「頼んだぞ」
伝えたい内容を全て魔法で鳥に託したようで、ネストレが鳥に話しかける。鳥は返事こそしなかったが、ネストレの言葉に応えるように翼を広げて飛び立った。
鳥を見送ったネストレは、視線をラグナへと移す。
「オルメキア王国の国王陛下と王妃殿下にお会いするのは気まずいでしょうから、お二人はイェレアス侯爵家の屋敷に滞在するよう手配しました。あそこはエイレーネ王国の中では王宮の次に安全な場所です」
「……お気遣い痛み入ります。父も母も宰相を信じ切っているので、私の話に耳を貸してくれないのです。実の両親にも頼れない状況で、不安でいっぱいでした。本当に、ありがとうございます」
礼を言うラグナの声が微かに震えている。
フレイヤは、はっとしてラグナを見た。
弟を守るために決心して突き進んできたように見えていたが、本当は不安に押しつぶされそうになりながらも必死で抗い、ここまで来たのだろう。
そんな彼女の努力が報われるよう、力になりたい。
(他国の貴族たちを相手に、私ができる事なんてないのかもしれない。だけど、私がカルディナーレ香水工房をクビにされて絶望していた時にシルヴェリオ様が助けてくれたように、私も二人を助けたい)
とはいえ、強敵を相手に太刀打ちできるような魔法の実力があるわけでもないし、仮に対峙した時のことを考えると、とてつもなく恐ろしくて震えそうになる。
それでも、フレイヤは何度も自分に言い聞かせ、委縮しそうになる心を奮い立たせた。
***
ネストレが国王に手紙を送ってから二時間ほどすると、屋敷の外で待機していた騎士がジュスタ男爵を連れて部屋を訪ねてきた。
連絡を受けた国王が、ジュスタ男爵を派遣したのだ。
ラグナたちがオルメキア王国――魔法に長けた者が多い国の宰相から逃れていると知り、もしも宰相の手の者に襲撃されても対応できる人選をしたようだ。
「話は国王陛下から伺っています。イェレアス侯爵家の屋敷までの道中、必ずお守りいたしますのでおまかせください」
ジュスタ男爵は右手を胸に当てて跪き、ラグナとアイリックに最上位の礼をとった。
「日が暮れる前に到着するよう、急ぎましょう。宵闇の中から狙われると厄介です」
そう言って、ジュスタ男爵がラグナをエスコートするために手を差し出した。ラグナはその手に自分の手を重ねようとして、ぴたりと止まる。
どうしたのだろうと不思議に思ったフレイヤが見守っていると、ラグナはくるりと踵を返して、フレイヤに駆け寄ってきた。
「えっ……?」
フレイヤが驚きのあまり声を零していると、ラグナがフレイヤの両手を握る。
途端に、フレイヤは両手にほわりと温かな魔力を感じた。
「フレイヤさんに精神干渉防御の魔法をかけたわ。そもそも精神干渉魔法を使うことは禁忌とされているから、不要かもしれないけれど……攻撃魔法や物理攻撃の防御魔法は既に他の人がかけているようだから、被らないようにしたわ」
ラグナはチラリとシルヴェリオを見遣る。
その様子を見たフレイヤは、かつてシルヴェリオがフレイヤを心配して魔法をかけてくれたことを思い出した。
フレイヤは全く気付けないのだが、魔導士はかけられた魔法から感じ取った魔力の持ち主が分かるらしいと聞く。
きっと、ラグナはフレイヤにかけられている魔法の術者がシルヴェリオだと気付いたのだろう。
「貴重な魔法をありがとうございます」
「……巻き込んでしまったお詫びよ。本当にごめんなさい。いつか必ず、きっちり謝罪をさせてちょうだい。そして、香水の代金を受け取ってちょうだい」
ラグナがフレイヤからゆっくりと手を離すと、フレイヤの手の中にずっしりと重い革の袋が現れる。隙間からぎっしりと詰まった金貨が見えて、フレイヤは慌てた。
「いくらなんでも多すぎます!」
「そんなことはないわ。その香水のレシピをアイリックの為だけに使ってほしいの。それなら、納得の金額でしょう?」
パチンとウインクをしたラグナは、押し切るように言うと、ジュスタ男爵のもとに戻る。そうして、ジュスタ男爵のエスコートで馬車に乗り込んでしまった。
(ええと……どうしよう?)
想像を絶する大金を手にして茫然と佇んでいると、アイリックが騎士たちに体を支えてもらいながら階段を降りてきた。その後ろには、香水瓶を手に持つリブが控えている。
アイリックはフレイヤと目が合うと、騎士たちに止まるように言った。
彼の視線から、自分に話しがあるのだと察したフレイヤは、急いで駆け寄る。
「ルアルディ殿、改めて、香水を作ってくれてありがとう。あの香り、とても気に入ったよ」
「第一王子殿下がお気に召す香水を作れて安心しました。あの香水も、奇跡を起こしてくれるといいのですが……」
フレイヤは肩を落とす。
アイリックの回復を祈りながら香水を作ったが、アイリックの体に変化はなさそうだ。
そんなフレイヤの様子に、アイリックは優しい笑みを浮かべた。
「奇跡はいつ起こるかわからないものだ。もしも……私が病に負けず生き続けている間に香水を使い切ってしまったら、また作ってくれるだろうか?」
「……っ! もちろんです! ご注文をお待ちしておりますので……どうか、病に打ち勝ってください」
アイリックは返事をしなかった。眉尻が少し下がり、微笑みが寂しさを滲ませる。
絶対に打ち勝つと言わない彼の、密かな諦念を感じ取った。それでも彼は、フレイヤが気落ちしないよう気遣って、奇跡はいつ起こるかわからないと言ってくれたのだろう。
そう思い至った途端、フレイヤは鼻の奥がツンと痛くなって、目元が熱くなるのを感じた。
「あのっ……、第一王子殿下に作った香水の名前ですが、『森への帰路』はいかがでしょうか? 病から回復されて、また第一王女殿下やリブさんと一緒に森を散策できるよう、願いを込めました」
フレイヤは、咄嗟に口にした。
少しでもいいから、アイリックに希望を持ってほしかった。
急に香水の名前を提案されたアイリックは目を瞬かせたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「『森への帰路』か……良い名前だ」
介助のために騎士の肩に回していた手を動かすと、フレイヤの手を取る。
フレイヤがきょとんとしている間に、アイリックはフレイヤの手の甲にキスをした。
「え、ええと……」
突然のことに混乱したフレイヤは、あわあわと狼狽える。
背後でネストレが、「シル、落ち着け!」と叫んでいたのだが、混乱しているフレイヤはネストレが叫ぶ声は聞こえたが、内容まではわからなかった。
「ありがとう、心優しい調香師殿。これから君と出会う全ての人が、君の優しさに救われるだろう」
フレイヤの背後――恐ろしい形相を浮かべるシルヴェリオを見遣って少し苦笑したアイリックは、そう言い残すとフレイヤからそっと手を離す。
そうして、再び騎士たちに介助してもらいながら馬車に乗った。