早河シリーズ第六幕【砂時計】
 三浦は黒板を消し終わり、教卓の上で作業をしていた。

(三浦先生のプライベートなんて全然興味ないんだけど……)

 プリントをファイルに差し入れていた三浦と美月の目が合った。眼鏡の奥の瞳が美月を見ている。
狼狽した彼女は彼から目をそらした。呼吸が苦しい。心臓が激しく音を立てている。

「あのぅ、三浦先生ー」

 絵理奈は顔を伏せる美月を置いてきぼりにして、階段教室になっている床の段差を降り始めた。

『何ですか?』

三浦の低い声が絵理奈に向けられる。絵理奈はにっこり笑って今美月がいる中央の席を指差した。

「私、志田絵理奈です。いつも真ん中のあの辺りの席に座ってるの」

 大学では教師と学生の距離感は遠い。ゼミの担当教官や、学部の4年生、院生になれば教師が学生の顔と名前を一致させる機会はあるが、まだ学部の2年生で座席も自由席の講義を受けている美月達の顔と名前を一致できる教師は少ない。

特に臨時の非常勤講師の三浦が美月達の名前を把握しているとは思えない。案の定、三浦は学生名簿を開いた。

『ああ……志田さんね。どうしたの? 授業の質問?』
「違います。三浦先生についての質問です」
『俺についての質問? 何かな?』

 三浦は驚く様子もなくファイリングの作業を再開した。美月は諦めの溜息をついて段差を降りる。
美月が履くバーガンディ色のショートブーツのヒールの音がやけに甲高く聴こえた。

「先生は何歳ですか?」
『37』
「ええー! 惜しかったぁ!」

 絵理奈はこちらに来た美月と目を合わせた。美月は無言で絵理奈の横に並ぶ。

『惜しかったって俺の年齢のこと?』
「はい。私の予想では32から35歳の間かなぁって思っていたんです。じゃあ、彼女はいますか?」
『いないよ』

三浦の受け答えは淡々としている。喜怒哀楽の見えない口調だった。

「じゃあじゃあ、好きな女性のタイプは? 小柄がいいとか、細い子がいいとか、ロングヘアがいいとか、巨乳が好きとか、あります?」
『容姿は人それぞれでいいと思う。でも、そうだね……強いて言えば、真っ直ぐで芯が強い人かな』

 顔を上げた三浦が美月を見て柔らかく微笑んだ。その微笑があまりにも穏やかで優しくて、これまで見たことのない三浦の表情に美月の心は掻き乱される。

「……ごめん、絵理奈。私、先に行くね」
「えっ? 美月行っちゃうの?」

扉に足を向ける美月を絵理奈が引き留めようとした時だ。

『浅丘美月さん』

 三浦が美月の名を呼んだ。彼女は扉を開ける手を止めて振り返る。

(どうして……私が“浅丘美月”だって知ってるの?)

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