早河シリーズ第六幕【砂時計】
11月12日(Thu)

 青空の下を駆けるタクシーの中で、香道なぎさは秋色に染まる東京の街を眺めた。
明後日から神宮外苑のいちょう祭りが始まる。黄金色に染まるいちょう並木を彼と見に行けたらいいな、などと考えていた。

 病院の前でタクシーを降りて、真っ白な床が眩しいエントランスに入る。なぎさは早河の着替えが入るバッグを提げて、エレベーターで四階の病棟に上がった。

 早河が入院している病室は四階の個室。昨夜は早河は恵に撃たれた左腕の治療、なぎさも医師の診察と点滴を受けていて彼とゆっくり話す時間がなかった。

恵と対峙したあの緊迫の状況下で聞いた早河の気持ちをもう一度確かめたい。

 病室の前で彼女は深呼吸を二度した。こうしていると、なんだか2年前の立場が逆転しているみたいだ。

なぎさが自殺未遂をして入院していた時、見舞いに訪れた早河はどんな想いで病室の扉を開けていたのだろう。

 ノックの後に扉をスライドさせて室内に身体を滑り込ませる。扉とベッドを隔てるカーテンを少し引くと早河の顔が見えた。
彼は上半身を起こして右手だけを使って新聞を読んでいた。

「おはようございます」
『おはよ』

早河はなぎさを一瞥してまた新聞に目を通す。なぎさは部屋のロッカーの中に彼の荷物を詰めたバッグを入れた。

「入院に必要な物、持ってきました。ここに入れておきますね」
『ああ、ありがとう』
「それと所長の家の鍵……」

入院の準備の為に早河から預かっていた彼の自宅の鍵を差し出した。しかし早河は鍵を受け取らない。

『また何か持ってきてもらうかもしれない。鍵はそのまま預かっていてくれ』
「わかりました」
『お前も今日は検査あるんだろ?』
「はい。午後から……」

 どうにも、互いにぎこちない。早河の顔を見ると心臓がこんなに大きな音を立てているのに、上手く話せなかった。

早河は新聞を折り畳んで机に放り、背もたれにしている枕に背をつけた。

『あー……煙草吸いたい』
「入院中は我慢してください。体の中が綺麗になっていいじゃないですか。所長は不摂生が過ぎるんです」

 彼の一言になぎさは笑いを堪えきれず、クスクス笑って早河の右側の椅子に腰掛けた。ぎこちなかった二人の間の空気がわずかに和らぐ。

笑っているのはなぎさだけで、早河は膨れっ面だった。

『……あのさ』
「はい」
『いつまで俺のこと“所長”って呼ぶつもり? 俺の助手は辞めたんだろ?』
「そうですけど……」

またしても気まずい沈黙の最中、早河の溜息が聞こえた。

『まだちゃんと話してなかったから、仕方ないか。一度しか言わないぞ?』

 早河の右手がなぎさの手を握る。心なしか、彼の頬は赤らんでいた。

『なぎさはもう俺の助手じゃないけど、また助手に戻ってきてくれるならそれでもいい。でも俺にとって、なぎさは仕事のパートナーでもあるけどそれだけじゃない』

高鳴る鼓動と高まる期待。なぎさは夢でも見ている気分だった。

『俺はなぎさを愛してる』

 人は本当に嬉しい時には言葉も出ないものだ。本当に嬉しい時は、悲しくもないのに涙が止まらない。

なぎさは腰を上げてベッドにいる早河に抱き付いた。早河の右腕がなぎさの背中に回る。

「私も……好き……。愛してる……」

一番伝えたかった言葉を貴方に。
一番伝えたかった気持ちを君に。

「ずっと好きになっちゃいけないって思ってたの。だから自分の気持ちに蓋をして誤魔化して……」
『俺も同じ。俺がなぎさのこと好きになる資格ないって思ってた。だけど違うんだよな。人を好きになるのに資格なんて関係ないんだ』

 病室で、そっと優しい、キスをした。甘い甘い、ふたりの初めてのキスだった。

恋しくて愛しい大切な人。
ようやく結ばれた二人の想い。

好き、だけでは足りない想い。
そう、きっとこれが〈愛している〉なんだ。

愛しています、貴方のことを。
愛しているよ、君のことを。

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