蜜月と甘い嘘 〜忘れられた辣腕社長は記憶を無くした花嫁を離さない〜
「それに僕は自分の事セレブなんて思っていないし、社長とか何とか言う前に唯の男だからね。とにかくあの時は久美に運命的なものを感じて、話をするきっかけが欲しくて必死だったんだよ」

 その熱心な眼差しは何度向けられても、慣れるどころかいつも胸の中がざわついて、なぜだか妙に落ち着かない。
 もじもじしながら居住まいを正していると「それはそうと」と彼は口をへの字に曲げた。

「笹原さん、じゃなくて「昴」でしょ。それと敬語も駄目」
「あ」

 そうなのだ。私は彼と、これから暮らしていくにあたっての細々とした取り決めを行っていた。
 それは「少しでも記憶が戻る様に、今迄と同じ生活すること」、「彼を『(名前)』で呼び他人行儀な話し方をしないこと」、そしてその他にもう一つ――。

「それじゃあそろそろ寝ようか」

 手を繫ぎながら寝室の前までいくと、身体を寄せて柔らかくハグをする。
 この三つが彼と決めたことだった。

『ベッドに入る前の習慣として、ハグをさせてもらえないかな?』

 彼からそんな提案があったのは、初日の就寝時での事だった。

「性的なことは何もしない。不純な動機じゃないんだ。寝る前に久美がちゃんとここにいるって実感したいだけなんだ。だから……」

 この事故で彼には沢山心配をかけた。そして記憶をなくした今も尚、心配をかけ続けているに違いない。 
 訴えかけるような眼差しでお願いされてしまえば、承諾せざるを得ないというものだろう。当初こそドギマギとしてぎこちない抱擁だったものの、今ではすっかりこの行為にも慣れてしまった。
 胸の中にすっぽり収まると、清潔感のあるハーバルグリーンのシャボンの香りを肺一杯に吸い込む。

「昴さんって、森とか緑を感じる様な香りが好きだったりする?」
「いやかい?」
「ううん。いい香りだなと思って」

 逞しい体躯に腕を回すと、柔らかなパジャマの布地越しに体温が伝わってくる。耳に響くのはトクトクと規則的に音を立てる鼓動だけ。呼吸する度僅かに上下する胸の動きを感じながら温かな身体に包みこまれていると、何故かとても心が安らいでいく。一種のセラピー効果でもあるのだろうか。思考は蕩けて身体の力が抜けてくる。

「ふぅ……ん」
 
 思わず満足げな吐息が漏れると、彼はビクリと身体を震わせた。

「あっ、ごめんなさい……なんだか眠くなってきちゃって」 
「……大丈夫。明日からまた仕事だからね。……じゃあもう寝ようか」

 そっと腕を解かれると、私達は今日もそれぞれの寝室のドアを開く。そしてお互いのベッドで眠りにつくのだった。

 
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