蜜月と甘い嘘 〜忘れられた辣腕社長は記憶を無くした花嫁を離さない〜

忘れた記憶

 ――なんだかとても嫌な夢を見たような気がする。 

 朝からなんとも寝覚めが悪いが、かといって二度寝するには日が昇りすぎているようだ。瞼を刺激する眩しい光を感じながら、私は渋々目を開いた。
 けれど瞳に映ったのはいつもの自分の部屋ではなかった。蛍光灯が煌々と照らされた、薄灰色をした見覚えのない天井だった。

「……ここ、は?」

 起き上がろうとほんの少し身動きした途端、ズキリとした痛みが体を走る。腕、足、そして側頭部――。思わず顔をしかめていると、引き戸がガラリと開かれた。

「先生!処置室の笹原さん、目を覚まされました!」

 あの、と声を掛けようと口を開こうとするが、こちらを見るなり白い人影は慌ただしくどこかへと走り去っていく。仕方がないのであちこち視線を送ってみると、よくわからない数値が液晶に光る無骨な機材が目に留まる。
 生活感のない無機質な空間、並んだ簡易的なベッド。そしてうっすら漂う薬品の香り――。 

 ――あ。ここは、病院だ。

 確信した私は、静かにため息をついた。
 一体何が起きたのだろう。
 腕に巻かれた包帯と、手の甲に刺さった点滴の針をまじまじと見つめる。
 どうしてこんなことになってしまったのか――。そんなことを考えていると再び扉が勢いよく開かれた。

「――久美!!」

 医師らと共に部屋に入ってきたのは高級そうなスーツに身を包んだ背の高い男性だった。処置の邪魔にならないような少し離れた場所で佇む彼は、口元を固く引き締めてこちらの様子をじっと見つめている。

「目が覚めたなら、もう心配はいらないかな」

 診察を終えた医師と入れ代わるように先程の男性がベッドに駆け寄ると、私の手を取りその指先に唇を寄せた。

「歩道橋の階段から落ちたって聞いた時は、心臓が止まるかと思ったよ。でも、出血も思った程酷くなかったようだし骨にも異常はないって。……きっと落ち方が上手かったんだね」

 男性は明るく冗談めかしているけれど、その顔はどこかぎこちなく声がほんの少し震えている。

「あの、なんだかご心配かけまして……」

 大人の男性のそんな姿に戸惑っていると、見かねたのだろう看護師が声を掛けてきた。

「ご結婚されて直ぐにこんな事故に合われて災難でしたけど、この程度の怪我で済んだのは幸運でしたね」
「結婚……?」
「ええ。ご主人、もの凄く心配されてたんですよ?こんな素敵な方に愛されて笹原さんは本当に幸せ者ですよ」

 ほんの少しの羨望の念を感じさせる声に、改めて男性に目を走らせる。
 憔悴した表情とはいえ、スラリとした鼻梁に長い睫毛、ふっくらとした唇が印象的。適度に厚みのある肉体を包んだスーツ姿は確かにとてもセクシーだ。けれど……。

「ご主人……?あの、誰の話でしょうか?」
 
 ポツリと呟いた私の声に、部屋にいた全員の顔が凍りついた。

< 2 / 25 >

この作品をシェア

pagetop