早河シリーズ完結編【魔術師】
 波の音は海の心臓の音。一定の感覚で刻まれる波の音に耳を傾けた。
美月は佐藤の黒いコートを羽織り、佐藤は車に備えていた別のコートを着こんでいる。

 寄り添う二人分の体温、冷めていく二つのコーヒー、潮の薫りを運ぶ風、いつかはこの瞬間も記憶の彼方の思い出に変わる。

「9年前にお母さんと会ってたんだね。お母さんに聞いたよ」
『キングの逮捕の後、俺がお母さんに連絡したんだ』
「お母さんが佐藤さんに会ってたことはびっくりしたよ。それに佐藤さんが生きているのを知っていたのに今まで私に内緒にして……」

美月は佐藤の脇の下に潜り込んだ。佐藤は美月の肩を抱いて、潮風に流れる彼女の髪をすく。

『お母さんを責めないでくれ。俺の存在は知らない方が美月のためだからと、俺からお願いしたんだ』
「わかってる。びっくりはしたけどお母さんを怒れなかった。お母さんも佐藤さんも私のためを思ってくれたんだよね」


 ──“美月が大人になるまでは美月の前に現れない──
佐藤が美月の母親と9年前に交わした約束だった。


「ねぇ。海……ちょっとだけ入りたい」
『かなり冷たいぞ?』
「ちょっとだけだから」

 美月は砂浜に続く階段の下に降りた。ブーツとタイツをその場で脱いで裸足になった彼女は、砂浜に立って佐藤を手招きする。

「佐藤さんも早く早く!」
『はいはい』

無邪気な美月に誘われて佐藤も裸足になった。結局いつも美月の可愛いワガママを聞いてしまう自分は、とことん美月に骨抜きにされている。

 雪がまばらに散る砂浜はひやりと冷たい。打ち寄せる波が足元に触れた。

「冷たい!」
『だから言っただろ。冬の海なんて足だけでも入るものじゃないのに』

 冬の海の冷たさにはしゃぐ美月を佐藤は隣で見守っている。美月は足で水を蹴り、しぶきをあげる波から逃れて波打ち際を駆けた。

波と遊ぶ美月の腕を引いて佐藤は彼女を抱き寄せる。二人の足元で水が揺れ、耳元を風が抜ける。

『俺が結婚してくださいって言ったらどうする?』
「……言ってみて?」

 月明かりに照らされた佐藤の微笑みが美月だけを見つめている。

『俺と結婚してください』
「はい……」

 叶わない夢だけのプロポーズ。まるで幼稚園の学芸会だ。
いい歳をした大人の男と女が叶わない夢を見て、何を馬鹿なことをしているのだろう。

それでも今は叶わない夢に溺れていたい。

 その気になれば生命を一瞬で飲み込める夜の海は、穏やかで優しい波をタイムリミットの迫る恋人達に届けた。
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