早河シリーズ完結編【魔術師】
 時計の針は寸分の狂いもなく時を刻む。巻き戻しも早送りも一時停止もできない。
一秒ずつ確実に、タイムリミットは迫っている。

 大げさにライトアップされた国道沿いの建物の内部に佐藤は車を滑り込ませた。砂浜と海水に浸かった脚を洗うために選んだ場所だ。

でもどんな名目でも、佐藤とこのような場所に入ることへの後ろめたさと緊張感で美月の鼓動は加速していた。

 部屋に入って真っ先に目に飛び込んできたのは毒々しい赤色のソファー。その隣には大きなベッド、ベッドの向かい側にはバスルームがある。

『脚だけ洗う? シャワー浴びるか?』
「脚だけにする……」

 本音は潮風に晒した髪も洗いたい、湯船に浸かって冷えた身体を温めたい。しかし今ここでそれ以上の行為に及べば、何かが崩れてしまう予感があった。

互いに服を着たままガラス張りのバスルームに入る。バスルームの窓からは湘南の暗い海が見えた。

 美月はバスタブの縁の広い部分に腰掛けた。彼女が手を伸ばしたボディーソープのボトルを佐藤が横から持ち上げる。

佐藤がボディソープを手のひらに出して泡立てると、バスルームは花の香りに包まれた。

『スカートの裾しっかり持ってろよ』
「佐藤さん、あの……」
『じっとしてろ』

 スカートの下の美月の脚に佐藤の手が触れた。きめ細かい泡が彼女の脚を包み込む。佐藤はひざまずいて、美月の脚を丁寧に洗った。

大切なものを扱う手つきで足の甲から足の裏、足の指の一本一本に彼の指が触れて、泡は膝の下まで滑った。

 一連の行為が恥ずかしくて美月は佐藤を直視できなかった。彼の手つきに厭《いや》らしさは感じない。
だけど指先から伝わる熱がもどかしくて、あと数センチ伸ばせば越えてしまう一線の、寸前で止まる彼の骨張った指の動きがじれったい。

それ以上は触れられなくて、でも触れて欲しくて、火照った顔を上げられない。

『美月』

 浴室に響く佐藤の声。彼は美月の右脚を洗い終えて左脚に触れていた。

「……何?」
『怖いか?』

佐藤は美月の膝の上に置いた手をわずかに上に進める。その先は越えてはいけない向こう側。

「……怖いって……何が?」
『俺は怖いよ。今、物凄く怖い』

 彼の泡だらけの指が美月の肌をなぞると彼女の肩がビクッと跳ねた。生ぬるいシャワーの水流で勢いよく落ちる泡の間から、白い素肌が剥き出しになる。

『このままお前を壊してしまうんじゃないかって怖くなる』

シャワーの蛇口が閉まる音、佐藤が動く音、佐藤の息遣い。水音が止んだ沈黙のバスルームに聞こえる二人分の呼吸の音が気まずさを煽った。
< 159 / 244 >

この作品をシェア

pagetop