早河シリーズ完結編【魔術師】
 情交の目的で作られた空間で男と女の間に本当は何があったのか、真実を知るのはそこにいる二人だけ。
タブーの境界線を越えた? 越えてない?
それは二人にしかわからない。

 バスローブを羽織った佐藤は真っ赤なソファーに腰掛けた。アジアン雑貨風の、何柄なのか不明なクッションに背中を預けて一服する。
バスルームの方からはドライヤーの音が聞こえている。

止まらない男の欲を体外に放出した佐藤の身体には、鬱々としたけだるさが残留していた。
言い訳はしない。盛りを過ぎた男も好きな女の前では思春期の雄だ。
後に残るのは倦怠感と罪悪感。

 ドライヤーの音が聞こえなくなり、静寂の部屋に美月が現れた。
佐藤と同じくバスローブを纏う彼女は彼の隣に腰を降ろす。洗い立ての長い髪が佐藤の指に絡まった。

テーブルの上には灰皿、煙草のケース、眼鏡、エメラルドグリーンの液体が入る香水瓶があった。

「いつもの香水、持ってきてたんだね」
『ああ。これを使うのも今日が最後だな』

 佐藤が持ち上げた香水瓶は美月の手に渡って、彼女はシュッとひとふき、佐藤と自分の手首に香水を吹き掛けた。

トップノートのツンとくる柑橘系の香りは、やがて体温と溶け合ってサンダルウッドとムスクの温かな甘さに変わる。

「ふふっ。またお揃いの匂いだね」
『相変わらず可愛いことするなぁ』

 苦笑いした佐藤は灰皿の横の眼鏡に手を伸ばす。コンタクトを外した目に眼鏡を装着した。

「そうやって眼鏡かけてるとやっぱり“三浦先生”っぽいよね」
『顔は違うよ』
「ね。ほんと騙された。佐藤さんもキングも私を騙して。酷いっ」

 9年前の美月が大学生の時、佐藤は貴嶋の命令で架空の人物に成り済まして、教員として大学に潜入していた。その際に使用した偽名が三浦英司だ。

『だけど美月は三浦が嫌いだっただろ?』
「嫌いって言うか……近付くのが怖かった。“三浦先生”の正体が佐藤さんだって知った今は、それも納得できる」

特殊なマスクで三浦に変装した佐藤の正体が美月に知られることはなかった。だが美月は、三浦から佐藤瞬の気配を感じ取っていた。
あの時、美月が三浦に感じた佐藤の気配は勘違いではなかった。

 近付きたくないのに、“三浦英司”に惹かれていた理由も説明がつく。
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