早河シリーズ完結編【魔術師】
 エスカレーターで三階に上がる。しながわアクアリウムの目玉の全長25メートルのアクアトンネルが二人を出迎えた。
凹の形をしたドーム型のトンネルに足を踏み入れた。どこまでも青い世界に支配された異空間は、自分が海中にいると錯覚してしまう。

『ついにここまで来ちゃったな』
「ここはちょっと緊張する」

 アクアトンネルは正真正銘の罪の場所。9年前に松田と美月はこのトンネルの中で一夜の泡沫《うたかた》の夢を見た。

 カラフルな色彩の魚達が右へ左へ水槽内を泳ぎ回り、海底では珊瑚や水草が揺れている。

 美月は幼少期、よく海の絵を描いていた。画用紙いっぱいに描いた青色の海の中には沢山の魚が泳いでいて、彼女が思い描く人魚姫の住む宮殿はたとえばこんな美しい海の底の、サンゴ礁の奥に建っている。

 あの頃は人魚姫が悲しい物語だと知らなかった。人魚姫が泡になって消えた理由も理解できなかった。

絵本では泡となって消える悲しみの描写で幕を閉じることも多いが、アンデルセンの原作では人魚姫は泡になって消えた後は、風の聖霊に生まれ変わる。

聖霊に生まれ変わった人魚姫は、愛する王子の妃になった恋敵の女性の額に祝福のキスを贈る。人魚姫は王子も、王子の妃になった女性も恨んでいなかったのだ。

(先輩って人魚姫に似てるなぁ)

 彼女は心の中でひとりごちして、青い光にゆらゆらと照らされる松田の横顔を盗み見る。
美月の視線に気付いた彼が微笑んだ。松田の微笑みを見ると、いつも心が穏やかになって安心する。
けれど彼が微笑みを向けるべき相手はもう美月ではない。

『……友情じゃないんだよな』
「え?」
『俺の美月への気持ちは友情にはならないってこと。何年経ってもLikeにはなれない。一緒にされたくないだろうけど、美月が佐藤さんを好きなように俺もいつまでも美月に恋してる』

改めて告げられる松田の想いが、美月の心に封じた感情を呼び起こす。

『もし俺が身を引かなければどうなっていたか、考えてしまう時がある。美月が俺を選んでくれたら俺は全力で美月を愛して守っていくのに……って』

 アクアトンネルの中央で彼らは立ち止まった。宝石のように煌めく魚が頭上を横切った。
9年前、二人はここでキスをして抱き合い、ぬくもりに溶けた。
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