早河シリーズ完結編【魔術師】
 2012年5月に東京都墨田区、押上《おしあげ》一丁目に東京スカイツリーが開業した。634メートルの高さを誇るタワーのシルエットは、空に向かって伸びる大きな木をイメージしている。

 開業から6年が経ち、東京の新たな観光名所となったスカイツリーの真下を早河仁は歩く。頭上のスカイツリーには目もくれず、彼は観光客の波をすり抜けて浅草通りを横断した。

墨田区は古いモノと新しいモノが混在する街。スカイツリーを中心とした複合施設、東京スカイツリータウンを出ればそこにはレトロな町並みが広がっている。

 早河の足取りに迷いはない。目的地に辿り着いた彼は蕎麦屋の暖簾《のれん》を潜った。
昼食には早い午前11時。店内に客はいない。

『いらっしゃーい……ってなんだ。早河さんか』

カウンターにいる初老の店主は早河の顔を見て落胆の様子を見せた。早河はコートを脱いで顔をしかめる。

『そっちが来いって呼びつけたから来てやったのに、なんだその言い種』
『早河さんはうちの売上にはさっぱり貢献してくれませんからねぇ』

 早河と同年代の男が厨房から顔を出した。この男は店主の息子の一彦《かずひこ》。ここの蕎麦屋は、店主の熊野《くまの》と息子の一彦、一彦の妻の三人で切り盛りしている。
一彦の妻がカウンター席に座る早河に熱い緑茶の湯呑みを置いた。

『昼飯には早いが、今日は蕎麦食ってやるよ』
『おっ。旦那がそんな優しいこと言ってくれるなんて珍しいね! 何にします?』

早河は温かいそばのメニューから月見そばを選んだ。注文を受けた一彦が張り切って厨房に立つ。
今日ここに早河を呼び寄せた人物は一彦ではなく、父親の熊野の方だ。

 早河は蕎麦の出来を待ちつつ、カウンター越しの熊野を見据えた。

『電話の件だけど、貴嶋の目撃情報があったのは六本木で間違いないな?』
『ええ。組の者が見掛けたそうですわ。組関係が経営する六本木のバーにガタイのいい黒人引き連れて来ていたらしいですよ』

 熊野は元ヤクザだ。20年前に組を抜けて蕎麦屋の店主として店を構える彼には、刑務所に入っていた過去がある。

早河がまだ刑事だった15年前に息子の一彦を傷害罪で逮捕した。一彦は厨房で鼻唄を歌いながら月見そばを作っているが、昔は元ヤクザの熊野も手を焼く不良息子だった。

『それがいつの話?』
『先週木曜の夜だったと聞いてます』

 店内に観光客らしきカップルが入ってきた。一般の客がいてはこれ以上の話はできず、早河と熊野は口をつぐむ。

『お待たせしました! ちゃぁんと蕎麦の感想聞かせてくださいよっ』
『はいはい』

傷害や窃盗を繰り返していた一彦が更正して家庭を持ち、蕎麦職人として励む姿は微笑ましい。昔逮捕した男が打った蕎麦の味は期待以上だった。
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