早河シリーズ完結編【魔術師】
 定時の18時で退勤した坂下菜々子はJSホールディングスを出た。

 今日は愛読している少女漫画誌の発売日。これから書店に寄って、最新号と気になる漫画を数冊購入して夜は漫画を読み耽ると決めている。

帰り道を行く菜々子の足取りは軽い。大好きな少女漫画の世界で頭をいっぱいにして浮かれていた彼女は、自分が尾行されているなんて思いもしなかった。

 哀れな生け贄に忍び寄る黒い影。その影が菜々子を捕らえた瞬間に、彼女が思い描いていた今夜のストーリーとは全く別の物語が開幕する。
少女漫画の夢のあるキラキラとしたストーリーではない、鮮血の悪夢を今夜、菜々子は目撃する。

        *

 精神が追い詰められた時、人は何かに集中することで現実逃避を試みる。買い物や食事、ゲームや睡眠と、現実逃避の種類は様々だろう。

美月の場合はそれが家事と娘の世話に向いている。黙々と今夜の夕食の支度をする美月を、隼人はもどかしく見ていることしかできなかった。

 食欲は失くても大人も子どもも腹の虫は鳴る。木村家は斗真だけがいない食卓を囲んでいた。
兄の姿が見えなくても1歳の美夢は食事を欲しがり、離乳食を手づかみで食べては機嫌よく笑う。美夢の笑顔が美月と隼人の癒しだった。

 美月が夕食の片付けをしている間、隼人は美夢の相手をする。動物のパズルを枠に嵌め込むアニマルパズルで美夢と遊んでいると、隼人のスマホが着信した。部下の坂下菜々子からだ。

{休暇中に申し訳ありません……}

菜々子はいつも以上にオドオドとした声色だった。美夢を膝の上に載せて隼人はソファーに腰を降ろす。

『どうしたの?』
{あの……新製品プロモーションの件でトラブルがありまして……今から本社に来ていただけませんか?}
『トラブル? 坂下さんまだ会社に残ってたの?』

 もうすぐ20時だ。隼人は部下にはできるだけ残業をさせないようにしている。
新入社員の菜々子に定時が過ぎるまで残るほどの仕事量は課していない。

{申し訳ありません。どうしても……今日中に進めたくて……でもその……}

菜々子は今にも泣きそうだった。これは相当な問題が発生したのかもしれない。
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