早河シリーズ完結編【魔術師】
 JSホールディングス社員専用の駐車場に車を駐めて、隼人は本社ビルの夜間通用口に向かった。隼人の警護を担当する芳賀刑事も近くで待機している。

本社にはまだ残っている社員もいるが、ほとんどの部署の灯りは消えていた。菜々子がいる七階の経営戦略部のフロアも電気は消えていて真っ暗だった。

『坂下さん。いる?』

 隼人の呼び掛けに応えはなかった。上司の隼人を呼び出しておいて自分だけ先に帰るなんて、菜々子の性格を考えると彼女はそのような無責任なことができる人間ではない。

手探りで電気のスイッチを探す。スイッチを探し当てて押そうとした時、腹部に激痛が走った。隼人の顔が歪み、膝がガクッと曲がった。

 彼は必死で電気のスイッチに手を伸ばして灯りをつける。明るくなった視界の片隅に目出し帽を被った男が映った。
男は隼人の腹部にナイフを突き立てている。

『お……まえ……』

震える手で男の肩を掴んだ。男は隼人の手を乱暴に振り払い、腹からナイフを一気に引き抜いた。溢れる血が隼人の服を赤く染める。

 ふらついた隼人はその場に手をついてうずくまる。手のひらにべったりと付着した赤い血が、やけに鮮やかに見えた。

「んー……んー……!」

どこかで女の唸り声がしている。痛む腹部を押さえてフロアを見渡すとデスクの向こうに横たわる女の両足があった。

『坂下……さん……そこに……いる?』
「……んー……んー……っ!」

やはり菜々子だ。何かで口を塞がれているらしく、声を出せる状態ではなさそうだ。

(罠ってことか。俺を誘き寄せるために坂下さんを……)

 大方の状況は察した。佐藤に忠告を受けていたのに、まんまと罠に嵌められた自分の軽率さに失笑する。

 目出し帽の男がうずくまる隼人を蹴り飛ばした。倒れた隼人は何度も咳き込み、呼吸を荒くして床に這いつくばる。

この状況で一発逆転は不可能だ。十代の頃なら危機的状況が起きても仲間が助けに来てくれた。
犯罪組織カオスと深い関わりを持った9年前のあの時は、莉央が二度も命を助けてくれた。

しかし今ここには隼人と菜々子、ナイフを持つ男しかいない。
他のフロアで残業中の社員達も騒ぎには気づかないだろう。

 菜々子だけは守りたい。彼女だけはなんとかしてここから逃がしてやりたい。菜々子はただ、自分達の騒動に巻き込まれただけなのだから。

 ほふく前進で隼人が動くたび腹部から流れる血が床に落ちて血の跡ができる。力を振り絞って立ち上がったが、足元がふらついてデスクに倒れ込んだ。

ここが誰のデスクだったかも思い出せない。デスクに置かれたペン立てが倒れて、ペンが辺りに散乱する音が響いた。

「ん! んーっ……!!」

また菜々子の声だ。彼女は何かを必死に伝えようとしている……?

 背後に人の気配を感じて、隼人は鈍い動きで振り向いた。血まみれの手で、倒れたペン立てから溢れたハサミを握り締める。
襲いかかってくる男の左腕に彼はハサミの刃先を突き刺した。

男が呻き声をあげてよろめいた隙に逃げようとしても、今の隼人には俊敏に動ける体力もなかった。

 さらなる非情の攻撃が隼人を襲う。ナイフが隼人の脇腹に深く食い込み、彼の血を吸ったナイフが抜かれると同時に全身の血液が溢れ出していく。

崩れ落ちた隼人の身体が血の海に沈んだ。
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