早河シリーズ完結編【魔術師】
1月18日(Thu)

 昼休みの女子トイレは女達の溜まり場だ。JSホールディングスの女子トイレでは、数名の女子社員が化粧台の前でメイク直しをしながらお喋りに興じている。

「この前、経営戦略部の木村主任が家族連れで歩いてるとこ見たのー。奥さんにデレッデレしてた」
「経営戦略部の木村隼人は愛妻家で有名だもんね。まだ33歳なのに二人の子持ち」
「おまけに奥さんは美人だし、あの曲者な田崎部長にも気に入られてるくらい木村主任の奥さんって性格良いらしいね。あそこまで勝ち組オーラ出されると逆に清々しいわ」

女はファンデーションのよれた部分を直してパウダーをはたき、もうひとりの女は口紅を塗りながら頷いた。

 坂下菜々子は、トイレの最奥の個室でそんな女子社員の会話を盗み聞きしていた。菜々子は入社1年目の新入社員。
女子社員の話題の的となる木村隼人は菜々子の直属の上司だ。

化粧台に陣取る女性達のお喋りは止まらない。彼女達の話題は隼人の妻に向いた。菜々子は彼女達の会話に耳を澄ませる。

「木村主任の奥さん、確かに美人だけど女遊びの激しかった主任を骨抜きにさせたって、どんな手使ったんだろうね」
「あんなにイケメンで仕事もできて愛妻家な男が旦那って羨ましい」
「あーあ。木村主任が結婚する前に一度でいいから遊ばれたかった。ワンナイトでポイ捨てでも木村主任なら許せる」
「ダメダメ。主任が結婚する前も告白した女子はみんな玉砕してるよ。どうしたって奥さんには敵《かな》わないのよねぇ」

 新入社員の菜々子は噂でしかその事実を知らないが、隼人が結婚した当時はショックを受けて、傷心旅行を名目に有給休暇の申請を出す女子社員が続出したと言う。

結婚してもなお、木村隼人は女子社員の憧れの的。隼人に憧れる女子社員には菜々子も含まれていた。

 大学時代まで菜々子は男性との接触を極端に避けて生きてきた。ソバカスの多い丸顔に度の強い眼鏡、一度も染髪経験のない真っ黒な髪は、美容院にも行かずに毛先は伸び放題で不揃いだ。

元々の内気な性格と容姿で自分に自信の持てない菜々子は、常にオドオドとして下を向いている。今もトイレに集う女子社員を恐ろしく感じてしまって個室を出ていけない。
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