嘘つきと疫病神

生きる意味

 店先で最後の客を見送り、暖簾を外して店内へと戻る。すでに店内では後片付けが終えられており、各々自由に過ごしていた。

「今日もお疲れ様。また明日もよろしくね」

 毎日聞く鏡子の労いの言葉。この言葉を聞けば、一日の終わりを感じる。
 部屋に入り、前掛けを適当に投げ捨て窓際に座り込む。柳凪の店内も静かではあったが、自室の静かさは異世界にいるように錯覚してしまうほどだ。
 ぼんやりと部屋の中を見渡し、壁に向かうように設置されている机が目に入る。机の上には読みかけの読本と、日めくりカレンダーが置かれていた。

「あ、誕生日……」

 日めくりカレンダーを目で追うと、途中で赤い丸で歪に印をしている日があった。その日はちょうど今週末に当たる日である。
 そして何度目か分からない、蕗の誕生日でもある。

「昔は祝ってくれたっけ」

 もう遠い昔のこと。今ではぼんやりと思い出す程度で、細かく何をしていたのかは微塵も思い出せなくなっている。
 母と二人で暮らしていたあの頃。貧乏で食事すらままならない毎日だったが、母と過ごす時間が嫌いではなかった気がする。
 貧乏ではあったが、誕生日の日には必ず母が蕗の好きな食べ物を用意してくれたのだ。
 自分の好きな食べ物は─────。

 ─────何だっけ。

「母さんって、母さんの顔ってどんなだった。母さんって、誰だっけ」

 どれだけ思い出そうとしても、ぼんやりと浮かび上がった人物の顔には靄がかかっている。声も、姿も、何も思い出せない。
 つい先日、丘の上で仁武と洸希に打ち明けた死のうとした過去。自分は井戸を覗き込み、飛び込んだら死ねるかもしれないと考えた。
 確かにあの時、目の前で母親が死んでいて一人になったから自暴自棄になった。それらは覚えているのに母親の顔が思い出せない。
 顔だけではない。共に暮らしていた頃のこと、何処で暮らしていたのかなど、何も思い出せない。

「あ、れ……。おばあちゃんって、誰? 誰かと、一緒に暮らしたはずなのに…………。何、で……」

 町で仁武に出会い、彼の家に連れられた時に迎え入れてくれた人がいた。
 温かい食事、温かい風呂、温かい寝床を用意してくれた人。
 誰かと同じ屋根の下で暮らす幸せを教えてくれた人。
 そんな人がいたはずなのに、どうして何も思い出せないのだ。

「い、痛い……」

 思い出そうとすれば脳が針を刺されたようにズキリと痛む。これまでにこんなことはなかった。物忘れが時々気になったりしたが、私生活に影響はない程度。
 しかしこれは異常だ。脳が思い出すことを拒絶している。

「……鏡子さん」

 不安に押し潰され自室を飛び出すと、柳凪の店内に続く廊下を足場に進む。
 店の扉に手を掛けた時、鏡子達と話す芝の重苦しい声が耳に届いた。

「特攻隊に志願しました」
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