野いちご源氏物語 〇五 若紫(わかむらさき)
しばらくして、若紫の君は都のお屋敷にお戻りになった。
源氏の君はそれをお聞きになって、のどかな夜にお訪ねになったの。
お屋敷はあいかわらず荒れていた。
お仕えしている人も少なくて、これでは幼い姫君はさぞかし怖がっておいでだろうとご心配なさったわ。
姫君の乳母はついたて越しに源氏の君にお会いして、尼君のご最期のことなどを泣きながらお話し申し上げる。
源氏の君も一緒に泣いてしまわれた。
乳母が申し上げる。
「姫様はやはりお父宮がお引き取りになるようでございます。ただ、亡き尼君はずっとそれをご不安に思って避けておられました。
と申しますのも、姫様の母君は、お父宮のご正妻にいびられてお亡くなりになったからでございます。それに、ご正妻の姫君たちのなかに入っていかれるには、姫様のお年が中途半端に思われるのです。いっそ物心のつかない赤ん坊でいらっしゃるか、あるいは人の心の奥まで想像できるようなお年でいらっしゃればよろしいのでしょうが。
ですから、姫様のお世話をしたいというあなた様のお申し出は、正直に申し上げて大変ありがたいことと存じます。しかしなにぶんにも幼い姫様で、あなた様にお任せするのは恐れ多うございます」
源氏の君の目にもう涙はない。
「そのような理由で遠慮していただかなくともよい。何度も尼君に申し上げたとおり、私は真剣なのだから。私と姫君は結ばれる運命だったのだと私は思っている。あなたもそのようにお考えなさい。
さて、姫君はどちらにおいでですか。せっかくここまで参ったのだから、今日こそは直接お話をさせていただこう」
と強気におっしゃる。
乳母は自分の立場の弱さに気づいて小さく震えたけれど、姫君のために気を強くもってお答えする。
「恐れ多い仰せでございます。ただ、あなた様のご本心が私にはまだ見えないのでございます。そのようなお方をお頼りして、姫様がふらふらさまようことになられては、とご心配申し上げております」
源氏の君が想像なさった以上に、乳母は堂々とお答えした。
生意気な乳母だとはお思いにならず、心地よい手ごたえをお感じになる。
こんなところでも浮気心が動くのか、乳母の忠誠心に一目置かれたのか、どちらかしら。
源氏の君は、
「私がこうしてたびたびお訪ねしていれば、姫君もその気になってくださると思うが」
と自信ありげにほほえまれる。
そのご様子があまりに優雅なので、若い女房たちはうっとりしていたわ。
姫君は祖母君が恋しくて、横になったまま泣いていらっしゃった。
そこへ女童がやって来て、
「ご立派なお客様がいらっしゃっていますよ。きっとお父宮でございます」
と申し上げる。
姫君は起き上がると、乳母のところまで出ていらしゃった。
乳母の前にはついたてがある。
そのむこう側には源氏の君がいらっしゃるのだけれど、姫君はそれに気づかれない。
「お客様はどこ? お父宮がいらっしゃったの?」
源氏の君は、ついたて越しにそのかわいらしいお声をお聞きになった。
「お父宮ではありませんが、仲良くしていただきたいと思っている者ですよ」
と優しく話しかけられる。
姫君は源氏の君のお声だと気づいて、「しまった」とお思いになった。
乳母に甘えるようにおっしゃる。
「眠いの。あちらへ行きましょう」
源氏の君は、
「今さらお逃げにならないで。私の膝の上でおやすみになったらよいのです。さぁ、もう少し近くへいらっしゃい」
とおっしゃる。
乳母は姫君の背中を押して、ついたてのすぐ手前にお座らせ申し上げた。
源氏の君と姫君が直接お話しするくらいはよいだろうと思ったのね。
「本当にまだ幼い姫様で」
と申し上げる。
姫君は何も気にせず座っていらっしゃるの。
源氏の君は、ついたての下の隙間から手をお入れになる。
やわらかいお着物とふさふさしたお髪に触れたあと、姫君の手をおとりになった。
姫君は、父宮以外の男性がこんなに近くにいることが急に恐ろしくなって、
「寝ようと言っているのに」
と乳母におっしゃって逃げようとなさる。
姫君が手を引っこめたことに乗じて、源氏の君はついたてのむこう側に入りこんでしまわれた。
「もう尼君はおられないでしょう。私があなたのお世話をするのです。そんなふうに嫌ってはいけませんよ」
とおっしゃる。
乳母は驚いて、
「まぁ、なんてことを。とんでもない無礼をなさる」
と姫君を隠そうとする。
身分の高い女性は、たとえ幼いときであっても、夫以外の大人の男性にお顔を見られてはいけない。
見られてしまったら、それはつまり男女の関係をもつことなの。
「何をおっしゃっても、姫様は何かをお決めになれるほどの分別はございません」
と、乳母は姫君に覆いかぶさって源氏の君をにらみつける。
源氏の君はため息をひとつおつきになると、腕を組んで、近くの柱に少しもたれるようになさった。
「こんな子どもをどうにかしようとは思っていない。ただ、私ほど真剣に、この姫のお世話をしようという者はいないだろう」
と、先ほどまでとは打ってかわった冷たい声でおっしゃった。
霰が大きな音を立てて降りはじめ、すさまじい夜になった。
「お仕えする者がまったく足りていないではないか。どうやってお暮らしになっているのだ」
と、源氏の君はあたりを見回しておっしゃる。
姫君を見捨ててお帰りになることなどできなくて、
「窓を閉めよ。恐ろしい夜だから、私がこちらに泊まって番をする。女房たちは姫君のご寝室の近くに参れ」
とお命じになる。
姫君はご寝室で霰の音におびえていらっしゃる。
乳母が背中をなでておなぐさめしていると、源氏の君が慣れた様子でご寝室に入っていらっしゃった。
乳母も、ご寝室の外にいる女房たちも、あまりのなさりようにあきれてしまったわ。
「とんでもない。どこまで非常識でいらっしゃるのだ」
と乳母は腹を立てたけれど、騒ぎたてることもできない。
ただご寝室の隅で、源氏の君がこれ以上のことをなさらないように見張っている。
姫君は源氏の君のお腕のなかで震えていらっしゃった。
もはや恐ろしいのは霰などではなく、突然ご寝室に押し入っていらっしゃった源氏の君だった。
そのご様子を、困ったことに源氏の君はかわいらしいとお思いになる。
「これはやりすぎだろうか」と反省なさるお心がないわけでもないのだけれど、今が姫君を誘う絶好の機会のようにも思われる。
「私の家へいらっしゃい。おもしろい絵がたくさんありますよ。お人形遊びもできますよ」
と、姫君のお髪をなでながら興味を引くようなことをおっしゃる。
それがとても優しいお声で、お髪に当たる手も優しくて、姫君はうとうとしてしまわれた。
しかしそのたびにはっと気づかれて、気を許すことはなさらない。
夜遅くなってもまだ風が吹き荒れている。
女房たちは、
「こんな恐ろしい夜に源氏の君がいてくださらなかったら、どれほど心細かったことでしょう」
「どうせなら姫様がお似合いのお年でいらっしゃればよかったのに」
などとささやき合っている。
乳母は姫君が心配で、おふたりから離れない。
風が少し弱まったので、源氏の君はお帰りになる。
深夜にお帰りになるのは、まるで恋人の家を訪れたときのようね。
帰り際に乳母にご相談なさった。
「姫君があまりにお気の毒で、もう心配で片時も離れていられない。やはり私の家にお連れするのがよいだろう。二条の院は私が一人で住んでいる家で、気楽なところだから心配はいらない。このようなお屋敷に寂しく住んでおられてはいけない」
とおっしゃると、乳母は、
「お父宮がお屋敷に迎えてくださると仰せでございます。尼君の四十九日の法要がすんだらと、こちらでは考えております」
とお答えする。
「お父宮が引き取られるのが当然かもしれないが、生まれたときから離れてお暮らしになっていたのだろう。私がお引き取りしても似たようなものではないか。たしかに年月の長さという点では宮様に負けるが、姫君を大切にお世話する気持ちでは負けないはずだ」
とおっしゃって、姫君のお髪を最後にもう一度おなでになる。
そして、何度もふり返りながらお帰りになった。
源氏の君は二条の院にお戻りになると、かわいらしかった姫君のご様子を思い出しながらおやすみになった。
日が高くなってからお起きになって、姫君にお手紙を書こうとなさる。
でも、恋人の家から帰ったわけでもないから、それらしい文章が浮かばないの。
筆を置いて悩んでしまわれた。
なんとかお手紙を書いて、姫君がお好きそうな絵と一緒にお届けになったわ。
源氏の君はそれをお聞きになって、のどかな夜にお訪ねになったの。
お屋敷はあいかわらず荒れていた。
お仕えしている人も少なくて、これでは幼い姫君はさぞかし怖がっておいでだろうとご心配なさったわ。
姫君の乳母はついたて越しに源氏の君にお会いして、尼君のご最期のことなどを泣きながらお話し申し上げる。
源氏の君も一緒に泣いてしまわれた。
乳母が申し上げる。
「姫様はやはりお父宮がお引き取りになるようでございます。ただ、亡き尼君はずっとそれをご不安に思って避けておられました。
と申しますのも、姫様の母君は、お父宮のご正妻にいびられてお亡くなりになったからでございます。それに、ご正妻の姫君たちのなかに入っていかれるには、姫様のお年が中途半端に思われるのです。いっそ物心のつかない赤ん坊でいらっしゃるか、あるいは人の心の奥まで想像できるようなお年でいらっしゃればよろしいのでしょうが。
ですから、姫様のお世話をしたいというあなた様のお申し出は、正直に申し上げて大変ありがたいことと存じます。しかしなにぶんにも幼い姫様で、あなた様にお任せするのは恐れ多うございます」
源氏の君の目にもう涙はない。
「そのような理由で遠慮していただかなくともよい。何度も尼君に申し上げたとおり、私は真剣なのだから。私と姫君は結ばれる運命だったのだと私は思っている。あなたもそのようにお考えなさい。
さて、姫君はどちらにおいでですか。せっかくここまで参ったのだから、今日こそは直接お話をさせていただこう」
と強気におっしゃる。
乳母は自分の立場の弱さに気づいて小さく震えたけれど、姫君のために気を強くもってお答えする。
「恐れ多い仰せでございます。ただ、あなた様のご本心が私にはまだ見えないのでございます。そのようなお方をお頼りして、姫様がふらふらさまようことになられては、とご心配申し上げております」
源氏の君が想像なさった以上に、乳母は堂々とお答えした。
生意気な乳母だとはお思いにならず、心地よい手ごたえをお感じになる。
こんなところでも浮気心が動くのか、乳母の忠誠心に一目置かれたのか、どちらかしら。
源氏の君は、
「私がこうしてたびたびお訪ねしていれば、姫君もその気になってくださると思うが」
と自信ありげにほほえまれる。
そのご様子があまりに優雅なので、若い女房たちはうっとりしていたわ。
姫君は祖母君が恋しくて、横になったまま泣いていらっしゃった。
そこへ女童がやって来て、
「ご立派なお客様がいらっしゃっていますよ。きっとお父宮でございます」
と申し上げる。
姫君は起き上がると、乳母のところまで出ていらしゃった。
乳母の前にはついたてがある。
そのむこう側には源氏の君がいらっしゃるのだけれど、姫君はそれに気づかれない。
「お客様はどこ? お父宮がいらっしゃったの?」
源氏の君は、ついたて越しにそのかわいらしいお声をお聞きになった。
「お父宮ではありませんが、仲良くしていただきたいと思っている者ですよ」
と優しく話しかけられる。
姫君は源氏の君のお声だと気づいて、「しまった」とお思いになった。
乳母に甘えるようにおっしゃる。
「眠いの。あちらへ行きましょう」
源氏の君は、
「今さらお逃げにならないで。私の膝の上でおやすみになったらよいのです。さぁ、もう少し近くへいらっしゃい」
とおっしゃる。
乳母は姫君の背中を押して、ついたてのすぐ手前にお座らせ申し上げた。
源氏の君と姫君が直接お話しするくらいはよいだろうと思ったのね。
「本当にまだ幼い姫様で」
と申し上げる。
姫君は何も気にせず座っていらっしゃるの。
源氏の君は、ついたての下の隙間から手をお入れになる。
やわらかいお着物とふさふさしたお髪に触れたあと、姫君の手をおとりになった。
姫君は、父宮以外の男性がこんなに近くにいることが急に恐ろしくなって、
「寝ようと言っているのに」
と乳母におっしゃって逃げようとなさる。
姫君が手を引っこめたことに乗じて、源氏の君はついたてのむこう側に入りこんでしまわれた。
「もう尼君はおられないでしょう。私があなたのお世話をするのです。そんなふうに嫌ってはいけませんよ」
とおっしゃる。
乳母は驚いて、
「まぁ、なんてことを。とんでもない無礼をなさる」
と姫君を隠そうとする。
身分の高い女性は、たとえ幼いときであっても、夫以外の大人の男性にお顔を見られてはいけない。
見られてしまったら、それはつまり男女の関係をもつことなの。
「何をおっしゃっても、姫様は何かをお決めになれるほどの分別はございません」
と、乳母は姫君に覆いかぶさって源氏の君をにらみつける。
源氏の君はため息をひとつおつきになると、腕を組んで、近くの柱に少しもたれるようになさった。
「こんな子どもをどうにかしようとは思っていない。ただ、私ほど真剣に、この姫のお世話をしようという者はいないだろう」
と、先ほどまでとは打ってかわった冷たい声でおっしゃった。
霰が大きな音を立てて降りはじめ、すさまじい夜になった。
「お仕えする者がまったく足りていないではないか。どうやってお暮らしになっているのだ」
と、源氏の君はあたりを見回しておっしゃる。
姫君を見捨ててお帰りになることなどできなくて、
「窓を閉めよ。恐ろしい夜だから、私がこちらに泊まって番をする。女房たちは姫君のご寝室の近くに参れ」
とお命じになる。
姫君はご寝室で霰の音におびえていらっしゃる。
乳母が背中をなでておなぐさめしていると、源氏の君が慣れた様子でご寝室に入っていらっしゃった。
乳母も、ご寝室の外にいる女房たちも、あまりのなさりようにあきれてしまったわ。
「とんでもない。どこまで非常識でいらっしゃるのだ」
と乳母は腹を立てたけれど、騒ぎたてることもできない。
ただご寝室の隅で、源氏の君がこれ以上のことをなさらないように見張っている。
姫君は源氏の君のお腕のなかで震えていらっしゃった。
もはや恐ろしいのは霰などではなく、突然ご寝室に押し入っていらっしゃった源氏の君だった。
そのご様子を、困ったことに源氏の君はかわいらしいとお思いになる。
「これはやりすぎだろうか」と反省なさるお心がないわけでもないのだけれど、今が姫君を誘う絶好の機会のようにも思われる。
「私の家へいらっしゃい。おもしろい絵がたくさんありますよ。お人形遊びもできますよ」
と、姫君のお髪をなでながら興味を引くようなことをおっしゃる。
それがとても優しいお声で、お髪に当たる手も優しくて、姫君はうとうとしてしまわれた。
しかしそのたびにはっと気づかれて、気を許すことはなさらない。
夜遅くなってもまだ風が吹き荒れている。
女房たちは、
「こんな恐ろしい夜に源氏の君がいてくださらなかったら、どれほど心細かったことでしょう」
「どうせなら姫様がお似合いのお年でいらっしゃればよかったのに」
などとささやき合っている。
乳母は姫君が心配で、おふたりから離れない。
風が少し弱まったので、源氏の君はお帰りになる。
深夜にお帰りになるのは、まるで恋人の家を訪れたときのようね。
帰り際に乳母にご相談なさった。
「姫君があまりにお気の毒で、もう心配で片時も離れていられない。やはり私の家にお連れするのがよいだろう。二条の院は私が一人で住んでいる家で、気楽なところだから心配はいらない。このようなお屋敷に寂しく住んでおられてはいけない」
とおっしゃると、乳母は、
「お父宮がお屋敷に迎えてくださると仰せでございます。尼君の四十九日の法要がすんだらと、こちらでは考えております」
とお答えする。
「お父宮が引き取られるのが当然かもしれないが、生まれたときから離れてお暮らしになっていたのだろう。私がお引き取りしても似たようなものではないか。たしかに年月の長さという点では宮様に負けるが、姫君を大切にお世話する気持ちでは負けないはずだ」
とおっしゃって、姫君のお髪を最後にもう一度おなでになる。
そして、何度もふり返りながらお帰りになった。
源氏の君は二条の院にお戻りになると、かわいらしかった姫君のご様子を思い出しながらおやすみになった。
日が高くなってからお起きになって、姫君にお手紙を書こうとなさる。
でも、恋人の家から帰ったわけでもないから、それらしい文章が浮かばないの。
筆を置いて悩んでしまわれた。
なんとかお手紙を書いて、姫君がお好きそうな絵と一緒にお届けになったわ。