冷徹ドクターは初恋相手を離さない
「そろそろ帰ろうかな……と。今日は荒木先生のこと、たくさん知れて良かったです。お話ししてくれてありがとうございました」
「いや、こちらこそありがとう。君が聞いてくれたから打ち明けることができたよ。あ、それと。俺のこと、荒木先生じゃなくて直哉って名前で呼んでくれないか」
「ええっ、そ、そんな! え、えっと……直哉さん」
「うん。ありがとう。嬉しいよ、詩織」
 名前を呼び合うだけでぶわっと身体の底から火が噴き出そうになるなんて生まれて初めてだ。
 私は火照った顔を冷やすために手で覆っていると、直哉さんは伝票を持って立ち上がってレジの方に向かってしまっていた。
「あ、せんせ……直哉さん」
 急いでバッグを持って直哉さんの方に向かうと、すでに会計が済まされていて、直哉さんはレシートをもらい外に出ていた。私は彼に追いつこうと後を追っていたので、私分の飲食代を払うための金額が見れないまま歩いていた。
「あの、私の分は私が」
「いいから。その代わり、少し一緒に歩きたい」
 荒木先生は手を差し伸べてきた。
 私、まだ裕太と別れられていないのに……。こんなことをして、許されるの?
 手を繋ぐことはまだできないと思った私は、両手を握って胸元を押さえる。
「すまん。もう少し待つよ」
「いえ。こちらこそすみません……」
 すぐに直哉さんは手を引っ込めて、ズボンのポケットに手を入れてしまう。
 それでも一緒に歩いてくれる彼の隣は、とても居心地が良かった。自分の意見を尊重してくれて、私という人間を理解した上で考えて察してくれる。会話を怠り、察してくれないだなんて言うつもりはない。
 でも、こうしてスマートに対応されると、恋愛慣れしていない私は彼の心遣いに魅了されてしまう。
 なんだか悪いことをしてしまったかもしれない。なんて自分の発言や行動に反省をしていたら、ちょうど前方から裕太が歩いてきた。
 見知らぬ女と手を繋いで。
「裕太……!」
「詩織!?」
 私は、今ここで決着をつけるべきなのだと、己を奮い立たせたのである。
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