恋と下剋上〜ザマァ対象は、みんなの憧れハイスペ上司です?!〜【1話だけ大賞版】

1

春の人事異動で、本社からの出向だという取締役がグループ子会社の我が社にやってきた。
所謂自身のステップアップの為の出向とやらで、何年かしたらまた本社に戻っていくらしい。

35歳、独身、長身でスマートな身のこなしと洗練されたスタイルのイケメン。言わずもがなのエリートともなりゃ、我が社の女性社員も色めき立つ。

「ちょ……めっちゃ格好良くない?」
「彼女とかいるのかな?」

確かに格好良いけれど、別に私には関係ないな。
それより朝ご飯食べてこなかったからお腹が空いてきた。
静かにざわめく周囲を他所に、腹の虫でもなったら困るとぼんやり下を向いていたのが悪かったのか。
ふと視線を感じて顔を上げると、取締役としっかり目が合ってしまった。

あ、こりゃヤバい。

取りあえずへらりと笑ってみると、取締役は「変なものを見てしまった」とばかりに眉間に皺を寄せる。
確かにこちらは美麗な取締役とは違い、特に麗しいとの評判もない、眼鏡にひっつめ髪をした地味オブ地味なイチ社員。だからといってあからさまにあんな態度を取ることもないだろう。

なんだか仕事がやり難そうな相手だな。それが取締役への第一印象だった。

◇◇◇

そしてそれから数ヶ月。

あいも変わらず人気の取締役ではあるけれど、私は彼の事で一人小さな悩みを抱えていた。

「あ、取締役おはようございます」
「……おはよう」

挨拶は社会人としての必要最低限のマナーでもある。廊下でばったりすれ違った取締役に声を掛けてみるも、()の人は今日も申し訳程度の呟きと共に、目も合わせずに去っていく。

そのくせその後からすれ違う女性社員の挨拶には「おはよう、今日も頑張っていこうね」なんて甘いバリトンボイスで会話を楽しんでいるようだった。

「斎藤取締役ったら今日も素敵!」
「今日も頑張っていこうね、だって!そんなこと言われた頑張っちゃうに決まってるわよねーっ」

嬉しそうな話し声を背後に聞きながら私は一人ため息をつく。

私にはろくな挨拶も返してませんでしたけどね?

相手次第で態度を変えるって、それって社会人としてどうなのだろう。
赴任挨拶があってすぐの辞令交付により、彼は総務部付きの取締役となった。それは直属ではないものの、私の上司ということになる。
席こそ離れているものの、同じ空間を共有する間柄。同じ部なのだから顔と名前くらいは知っている筈。

それなのに――。

同じ部内だけでなく社内の女性社員全てには優しい対応なのに、なぜか私には常に能面のような無表情で虫ケラを見るような眼差しを向けてくる。
塩対応にも程がある、そんな態度を毎日され続けられれば、地味に精神力も削られていくというものだ。

私は何か取締役に失礼なことでも働いたのか?

いや、そもそも社内回覧や郵便物の配布で席に立ち寄るくらいで、直接的な業務で絡んだことなどまだ一度もないはずだ。ましてや目と目がまともにあったのなんて、初めて姿を見たあの時だけだ。

もしやあの時の態度が、彼にとっては根に持つほどに失礼だったということなのだろうか。

……心が極端に狭い人なのか、はたまた私の存在が生理的にとことん気に食わないだけなのか。


『向こうの気持ちなんてなんでもいいけどさ、ほんっと腹立つんだよねー!!!』

週末夜の10時過ぎ。
私はオンラインゲームのボイスチャットで愚痴を吐きまくっていた。

『まあ、取締役なんて肩書があっても所詮はただの人だからね』

画面向こうでは燃えるような赤い髪の女騎士のアバターが、西洋風の庭園を背景に肩を竦めている。

『けどさあ、取締役っていったら部下の手本になるような存在じゃないの?なのにそんな人が私的な感情で露骨に態度変えるのってどうなのよ?って思わない?』
『でも悲しいけれど、偉い立場の人=イコール人格者っては限らないんだよねぇ』

会話相手の女騎士――最近仲良くなった「ゆいぴ」は、デパートの凄腕美容部員らしい。様々な職業の御婦人を相手にしてきたであろう、やや低音の艷やかな声には説得力が滲み出ている。

『そういうものなのかなぁ』
『ま、そんなクソ上司の事をいつまでも考えてるのは時間と美容の無駄遣いだよ。それにほら、そろそろ例の限定イベントの時間でしょ?』
『ホントだっ!今日こそは幻のルビーを手に入れて、麗しのタークス様の好感度を上げるんだった!』

私が何年にもわたってやり込んでいるオンラインゲーム「トライフル☆ラブレッスン〜運命の乙女と魔法の王国〜」は、所謂乙女ゲームと言うやつだ。
このゲームの特色はユーザーそれぞれが設定したアバターで、乙女ゲームを楽しめるところである。着せ替え可能なアバターをお披露目できる場として多人数がチャットできる複数の「サロン」も併設されていて、乙女ゲームと着せ替えゲームを同時に楽しむことが出来るのだ。

赤い髪を靡かせる騎士姿のアバターが凛々しい「ゆいぴ」とは、このサロンで偶然知り合った。初心者だった彼女から声をかけられたのがきっかけとなり、今ではすっかりボイスチャットを楽しむ仲である。

『ねね、じゃ最後にこれだけ聞いてもいい?ゆいぴはさ、ムカつくお客様とかいたりしないの?』
『接客してる時は、美容部員の自分を演じてる、って感覚だからなぁ。だからクレーム言われたりしたとしても、あまり気にならないっていうか』

なるほどそういう考え方もあるのか。
敏腕美容部員のメンタル調整法に、なんとなく今後のヒントを得たような気がしてくる。私はゆいぴにお礼を言うと、今度こそ限定イベントに参戦するべくサロンを後にするのだった。

◇◇◇

そして翌週明け、月曜日の朝。
週末考えた結果、私は会社を乙女ゲームの世界と思い込んでみることにした。

文字に起こせば夢と現実の区別がつかないイタい女の発言でしかないが、これも取締役から与えられる精神的苦痛をなんとかする為の緩和法だ。

要するに自分が乙女ゲー厶のヒロイン、取締役が好感度初期設定値0%の攻略対象と見立ててやるのだ。

好感度が0%なら地道に声かけをしていく他仕方がない。今こそ乙女ゲームでやり込んだノウハウを活かして、塩対応からの脱出を目指すのだ!

心意気も新たに給湯室にコーヒーを入れに行くと、早速取締役とばったり鉢合わせをしてしまう。それでは早速作戦開始だ。いつもよりも明るい笑顔を意識して、元気よく声をかけてやる。

「おはようございます。今日はよいお天気ですね!」

すると取締役は、ほんの一瞬目を見開くと――すぐに相変わらずゴミでも見るような表情で「そうですね」と言ったきり口を閉ざしてしまう。

全く会話が続かない。

「そ、それではお先に失礼します」

仕方がないのでにこやかな顔を取り繕ってそそくさと給湯室を後にするが、やっぱり内心面白くはない。
なんなんだよまったくよお。私が一体何をして、彼の心はあれ程までに頑なだというのだろう。

この調子で行ったところで、ゴミや虫ケラ扱いから人間と認識頂ける日はいつかくるのだろうか。いや、一生来そうにないのではないか。取締役が本社に戻るまでのあと数年、私は虫ケラとして生きていくしかないのだろうか。

半ば諦めつつも、とりあえず日々笑顔での挨拶は欠かさず行っていたところ、その日は急にやってきたのだった。

◇◇◇

それは、総務部の暑気払いの飲み会での出来事だった。
ピンクのカクテルを片手に大皿から取り分けた刺し身を口に運んでいると、遠くの上座から私を呼ぶ声がした。

「山野さん、山野さんったら!こっちに来て一緒に飲もうよ!」

バリトンのよく通る声で、取締役はこちらに向って手招きをする。

取締役が私の名前を知っていた事にもビックリするし、隣りに座れと言われたことにも驚きを隠せない。
え、なに?酒の席で、私何か説教されたりしたりするの?
心当たりは全くないが、日頃の彼の様子からすると愉快なことは期待できない。
どういった意図なのかよくわからないが上司からのご指名だ。行きたくはないが仕方がない。
周りの女性社員からの突き刺す様な視線の中、私はグラスを持ってそそくさと取締役の隣りに移動するのだった。

よくわからんお高そうなウイスキーなんぞを嗜む取締役は、ご機嫌な様子で微笑んでいる。
いよいよ困惑しつつも当たり障りのない会話を取り交わしていると、取締役は興味深そうに私のグラスを覗き込んできた。

「その、ものすごいピンクなお酒、何て名前なの?」
「えーっとメニューには『スーパーラブリースイートハニー』とか書いてありますけど、多分オリジナルカクテルってやつですね。」
「ふうん。何味なの?」

改めて一口飲むと、味を確かめるように目を閉じる。

「うーん。説明には、甘くて酸っぱい恋の味とか書かれてますけど、何て味なのか形容しがたいですね」
「甘酸っぱいなら柑橘系かな?ハニーっていうなら蜂蜜も入ってそう?」
「ううーーん。そう言われるとピンクグレープフルーツとかの味のような気もしなくもないような……。気になるようでしたら、取締役もお飲みになられます?注文しましょうか?」
「いや、それは結構」

部下の鏡として上司の気持ちを汲んでやるが、素気無く断られてしまう。
……けれどまた暫くすると、「そのピンクのお酒は美味しいの?」と始まる。
なんだ、このお酒に興味津々じゃないか。

「美味しいかどうかと言われると、まあ美味しいんでしょうけど……よくわからない味なので、私はこの一回きりであとは注文しませんかねえ」
「ふうん。益々どんな味なのか気になるね」
「じゃ、注文しますか?」
「いや結構」

……はい、このやり取り2回目!!
このピンクのお酒に興味津々なのではなくて、会話がイマイチ続かない我々の、彼なりの会話のネタ振りと言う名の気配りでもあったのだろうか。だったらこっちこいとか呼ぶなよなーと、恨めしく思う感情も湧いてくる。

チビチビ舐めるようにして飲んでいるピンクのお酒は一向に減らず、時間と共に氷も溶けて味も薄まってくる。

それを見ていた取締役は、「そのお酒って……」とまた話をし始めるのだった。

はいこの会話、3回目ぇ〜!!!
今度はなんて返答してやろうかと身構えていると、取締役はグラスを指差す。

「ね、一口飲んでみてもいい?」
「だったらこの氷が溶けて薄くなった飲みかけではなくて、注文し直しますね?」
「いや、新しいのは要らないよ。これでいいよ。この、山野さんが飲んでるやつ、一口飲んでみてもいい?」

取締役はひょいと私からグラスを取り上げると、一気に中身を飲み干した。

「ふうん……こういう味なんだ」

取締役の行動に驚きのあまり固まっていると、彼は「あ」と声をあげる。

「俺、今山野さんと、間接キス、しちゃったね」

そしていままでお目にかかった事など一度もない、いたずらっぽさを含めた甘い甘い笑顔をみせるのだった。

……ギャーーーース!!
イケメンの甘い笑顔の破壊力!!!

本人にそんな意図はないのだろうけど、あまりの可愛らしさに胸が鷲掴にされたように、きゅうううんとしてしまう。
やべえ。イケメン、やべえ。
生身のイケメンに対して抗体なんて持ってない私には刺激が強すぎる。
バクバク音を立てる左胸を押さえつつ、「いやまてよ」と考える。
この人私を虫ケラみたいな目で見る人だよな。一体何がどうなっているのだ。なんでそんな甘い笑顔をこちらに向けてくるのだろうか。

取締役の考えていることがさっぱりわからない。目を白黒させていると、さらに取締役はこちらに体を密着させるように寄りかかる。

「ほんとはね、俺、このお酒が気になってたんじゃないの」

え、あんなに何味か気にしてたくせに?
意味がわからんという顔をしている私に気がついたのか、ふにゃりと笑って口を私の耳元に近づける取締役はそっと囁く。

「俺ね、ずっと、山野さんのグラス狙ってたの。君と、間接キスする機会を、狙ってたの」


……ふぎゃああああ!!!!


なんだどうした何があったんだ????


「す、すみません。ちょっとお手洗いに行ってきます」

いよいよ何が何だかわからない。一時撤退。慌てて取締役の隣から離れてみることにした。

さて、心を落ち着かせようとお手洗いには来たものの、さっきの今では全然冷静になんてなれっこない。手を洗って鏡を見ると、あんなことを言われたせいか、ちょっと「女」の顔になっている。
意図が掴めない取締役の発言に、まんまとそんな顔にさせられるとはなんだか悔しくなってくる。顔をパンパン手で叩いて気合を入れる。
さて宴席へと戻ろうか。お手洗いのドアを開けると、そこにいたのは長身の洗練されたイケメンの姿。

……私の心をたった数秒で乱しやがった取締役が、腕組みをしてこちらを見つめていたのだった。



足元だけがぼんやり照らされた、仄暗い照明の通路の壁に背中をつけて、取締役はこちらをじっと見つめている。
もしかして、ここまで私を追いかけてきた?
……まさかね。

「取締役もお手洗いですか?先に戻ってますね」

素通りするわけにもいかず、声をかけて通り過ぎようとすると、取締役は私の手をぎゅっと掴む。

「待って。さっきのことなんだけど」
「さっき、とは?」
「えっと、山野さんに謝ろうと思って」

真剣な眼差しの取締役は、口元をきゅっと引き締める。

まあね、普通に考えたら職場の延長みたいな飲み会で、「間接キスがしたかった」なんて言っちゃったら、そりゃセクハラ案件間違いなしですよねえ。
流石エリート、酔っているとは言えギリギリで危機管理能力が働いたか。
こちらとしても色々面倒なことに巻き込まれるのは御免である。一つ聞かなかったことにしておいてやろうではないか。

「あっ、大丈夫ですよ。お気になさらないでくださいね」

そっと掴まれた手を払い、当たり障りのない社交辞令の微笑みを浮かべて宴席へと戻ろうとすると、「そうじゃなくて」と、再度私の腕をガシリと掴む。

「さっき君と間接キスがしたいと言ったのは間違いだった。謝るよ。申し訳ない」

……うん、それさっき聞いた。
もう気にしないから大丈夫だって。 

「ほんとにもう、わかりましたから」 

訝しがりならも、立ち去ろうとする私の腕を引っ張ると、背中を通路の壁に押し付けるように取締役がガバリと覆い被さる。

「俺、君と間接キスがしたかったんじゃない。……ただ、君と、キスしたいだけだったんだ」

……耳元で聞こえる低く熱い声は、謝罪に全くなってない。余計にタチの悪い告白だった。
そんな風に顔を近づけて囁かれては、取締役のほんのり上気した頬、長いまつ毛と切なそうに少し潤んだ瞳、そしてぷるんと柔らかそうな唇ばかりに意識が行って、目のやり場に困ってしまう。

「ね、山野さん。山野さんは?俺とキスしてみたくない?キスしてもいい?」

間近に迫るはとてつもなく官能的な雰囲気を漂わせたイケメンのご尊顔。迫力に負けて、思わずイエスと言ってしまいそうになるが、いやちょっと待て。
相手は人を虫ケラみたいな目で見るような奴だぞ?虫ケラとキスしたいってどういうことだ??

取締役は愛おしそうに右手の親指で私の頬をするりと撫でつける。左手で耳たぶをふわふわ触りながら更に顔を近づけ、おでこをコチンと突き合わせてくる。
……優しくそっと触れる温かな手が心地良い。
混乱しながらも思わずうっとり目を閉じてしまう。

「目を閉じちゃって、かわいい」

フフッっと取締役が笑う声がする。

「答えないってことは、キスしてもいいってことなのかな?」

……うーん?
よく、ない。
うん。よくは、ないよ!!

慌てて全意識を平常心へ戻るべく集中させて、グイッと両腕で取締役の身体を突き放す。

「えっと……と、取締役は私のこと、お嫌いなんじゃなかったんですか?」
「え、俺、山野さんのこと、嫌いじゃないけど?」

取締役は、思ってもみないことを言われたとばかりにキョトンとした顔をする。

はあ?
会話は続かないわ人を虫ケラのような目で見るわ、どう考えたって嫌ってる人に対する態度だろそりゃ。

「いえ、上司に向かってこんな事を言うのはなんですけど、取締役はいつも私を見る度不機嫌そうでしたし会話もしたくないと言った様子でしたよね?あの態度は、どう控えめに考えても嫌われているとしか思えませんでしたけど……?」
「だってそれは……山野さんが悪い」

思いきって今までの疑問をぶつけてみると、取締役は「あぁ」と呟き、照れくさそうに目を伏せる。

「はあ……?」

私が悪い?
心当たりは無いはずだけれど、思い当たる節があるといえばあるような。

「うーん……あ、あれですかね?この間の会議で使う資料をA4じゃなくてA3で大量に出力しちゃったことですか?それとも来客対応の時に、分量間違えてめっちゃ苦いコーヒーを出しちゃったことですかね?」
「あ、そんな失敗してるの?山野さんていつもキリッとしてるイメージだったから、そんなミスするようには見えなかったよ」

意外であると言わんばかりに、取締役は目を丸くする。

……しまった。そういうことではなかったのか。
面白がるような視線を受けながら、言わなくてもいいことを口にしたことを猛烈に後悔する。

「そういう無防備なところも含めて全部可愛い過ぎて、ほんと、困っちゃうんだよ」

取締役は更に体を密着させてくる。

「顔に力を入れてないとニヤけちゃうし、意識してると会話もうまくできなくなっちゃって。ほんと、山野さんが全部悪い」

『可愛すぎるのが悪い』、だ、と?

そんなことを言われたのは人生で初めてのことだ。
自分で言うのもなんだけれど、そんな大絶賛される顔立ちだと認識したためしは一度もない。
化粧は社会人として必要最小限程度だし、鎖骨まである髪も染めてもいないし、いつも1つにまとめている程度。
取締役の目の方がどうかしているのではないかと思うのだが。

「配属の挨拶の時に初めて山野さんを見た時から、なんだかわからないけれど、ずっと山野さんが欲しくて仕方なかったんだ。ねえ。山野さんは、俺のこと嫌い?嫌いじゃなかったら、キスしてもいい?」

取締役は耳元で、蕩けそうに甘い声で囁く。

「……酔ってらっしゃるんですか?」
「酔ってはいないよ。けど、酒の席の勢いでも借りないと、こんなことは言えないよね」

強引だなと思うものの、イケメンからそんな口説き文句を聞いてしまえば、頬に熱が集まって頭がぼうっとなってしまう。
足には力が入らなくなるし、なんなら声を聞いているだけだというのに、ちょっと気持ちよくなってしまっている。

……流されてもいいのかな?
上司だけど、いいのかな?
キスしちゃっても、いいのかな?

そんなことを考えて、腕を取締役の首に回そうとしたその時。

「こんなに誰かを手に入れたいと強く思ったのは山野さんで2人目なんだ。俺、山野さんが2番目に好きなんだ。」

取締役はおかしなことを口走るのだった。

……ん?2番目?
今、2番目に好きと仰いました??

◇◇◇


宴席での通路にて、いわゆる壁ドンされてから1時間後。
照明がぐっと落とされた大人なムードのバーの店の中、私は、カウンターの一番隅の席に座らせられていた。
左には壁、右には取締役。全く逃げ場が無い状況。

「山野さんは何を飲む?」

焦る私とは裏腹に、ご機嫌な様子の取締役はメニュー表を見るふりをして、ぺたりと身体を密着させてくる。

「えーと、取締役……?」
「貴史」
「え?」
「斎藤貴史だよ、山野朋美さん。今はもう会社の飲み会じゃなくて、一個人同士の時間なんだからね?」

取締役はニコリと笑って、スマートな大人のやり口ってやつをさっそく見せつける。
その一方で、こんな駆け引きめいた会話なんて生まれてこの方した事の無い私は、どうしたらこの怪しげなムードを打破していこうかと先程からそればかりを考えている。
こんな時にどうすればいいのかなんて、私の愛する乙女ゲームには選択肢がなかった。
中でも「トライフル☆ラブレッスン」は健全な学園恋愛ゲームである。酒の勢いで口説かれる(性的なニュアンスを含む)なんてシチュエーション、勿論存在などしない。

(こんな展開になるなんて、想像してなかったもんなあ)

己の武器の弱さに気づくのには、今更ながらもいいところだった。

ああ、もう全く。私こっそりため息をつく。
どうしてこんなことになってしまっちゃったのだろう……???

◇◇◇

「あの……取締役、今、2番目に好きって仰いました?」

取締役の首に腕を回そうとしたその時。一瞬にして冷静さを取り戻した私は、慌てて伸ばしかけた手を引っ込めた。

「うん?そんなこと言ったっけ?」
「言いましたよ!そう聞こえましたもん」
「空耳じゃないの?」

しらばっくれて更に取締役は顔を近づけてくるので、その胸を両手で思い切り押しのけてやる。

「いや、言いましたよ」
「気のせいだよ」
「いや、絶対言いましたって」

言った言わないの押し問答。
あーこりゃ埒があかない。

「……えーと、じゃあわかりました。きっと私の聞き間違いだと思います」
「そうだね、じゃ、続きをしようか?」

こちらが折れると、取締役は再び妖艶な笑みを浮かべて迫って来る。
だーかーらー。なんでそうなるんだよ。続き続きってさっきからこの人、どんだけ私とキスしたいのか。
本能の赴くままに行動する人だなと呆れつつ、この状況から脱出する術を頭をフル回転にして考えてみる。

唸れ私の脳細胞!今こそ活躍の時である!!

「あー、えーと、申し訳ありませんが私、取締役のことよく知りませんので……よく知らない人とキスをするのは、ちょっといかがなものかな?と思うんですよね?」

……酒の入った脳細胞では、とんと力は発揮できず。
口から出たのは我ながら何とも断る決定力としては弱い発言だった。

「ふうん、そっか。じゃ仕方ないよね」

けれど取締役にはなにか心に響くものがあったのか、あっさりと拘束を解いてくれた。
よかった助かった!

「そ、それではそういうことなので、お先に失礼します……」

そそくさ取締役の横をすり抜けようとすると、ガシッと手首を掴まれて再びその胸に引き寄せられてしまう。

「ね、俺のことよく知らないからキスできないって言うけど……だったら、知ってくれたらキスしてくれるの?」
「えぇ?うーん、まあ、そうかもしれませんよね」

なんと言ってよいのか分からず、適当に話を合わせてみると、取締役はぱっと顔を輝かせる。

「俺の事よく知らないなら、これからよく知って貰えばいいってことだよね?じゃあとりあえず、これから親睦を深める為にも二人きりで二次会に行ってみよう?」

トンデモ理論が耳に飛び込んでくる。

『なに言ってんだコイツ』

頭ではその発言に胡散臭さを感じるくせに、魅力的な低音の声色を耳元で囁かれてはその吐息、その熱に当てられ身体の奥におかしな火が灯ってしまいそうになる。
頑張れ私、負けるな私!
理性的になるんだ!本能に負けるな!!

「えっとえっと、でも二人で一緒に同じ方向に消えていったらおかしな噂がたちますよ?」
「俺は別に気にしないけどね?」

いや、あんたが気にならなくても私が気にするんだよ!
この取締役を狙っている女性社員が何人いると思っているのか。二人で消えてしまった日には、翌週の会社で私は吊し上げされた上、血祭りにあげられること間違いなしだろう。
私はそんな目にあいたくないぞ!

取締役の胸から逃れようともがくものの、その体はびくともしない。

「だって俺のことよく知ってもらう為には、二人きりにならない中々話もできないでしょ?だからね、違う場所で俺の話をしよう?」

そう言った取締役は、ジタバタ抗う私をそのまま引き連れて、締めの挨拶が聞こえる酒宴の席へと戻って行くのだった。

◇◇◇

「えぇー!斎藤取締役、もう帰っちゃうんですかぁ?」

取締役の腕を引っ張って、二次会へ行こうと誘っているのは総務部イチのカワイコちゃんと名高い結城ちゃんだ。

「そ、だから少しだけどこれで俺達の分まで楽しんできて」

財布から一万円札を数枚取り出すと、幹事の社員の手に渡す。

「うおぉぉお!ありがとうございます!」
「さすが斎藤取締役、太っ腹!イケメン!!」
「そんなに褒めても、もうこれ以上は何も出てこないぞ」

軍資金を得た二次会組のテンションは、取締役を胴上げせんばかりに爆上がりに上がっている。

「え、斎藤取締役が帰るなら私も帰ろうかなぁ」
「結城ちゃんそんな事言わないで、せっかくの斎藤取締役のご厚意だしパーッと二次会で使わせて貰おうよ!」

不服そうに呟く結城ちゃんに、慌てて誰かが話しかけ二次会へ行こうと熱心に誘いをかけている。

「結城ちゃんがいないとつまらないよ!」
「でも……」

迷う様子の結城ちゃんに、取締役がにっこり微笑む。

「せっかくの週末なんだし、俺の分まで楽しんでおいでよ」

名残りおしそうに結城ちゃんは後ろを振り返りながら、二次会グループらと共に夜の街へと消えていく。そんな後ろ姿を見届けるのは、私と取締役の二人だけ。
そして完全に彼らが人混みの中に溶け込むと――取締役が満面の笑みをこちらに向けた。

「さて……。では我々も、そろそろ異動するとしようかな?」

渋る私の背中をグイグイ押しながら2件目のお店へと足を向けるのだった。

◇◇◇

「斎藤貴史です。35歳です。独身です。本社からこの会社に出向で参りました。よろしくお願いします」

そんな訳で只今私は「お互いのことを知るには自己紹介からだよね?」との理屈から、取締役の自己紹介を聞かされているのだった。

うん。その情報は赴任の時の挨拶で聞いたから、私も知ってるやっつぅー。
そんな私をお構いなしに、取締役はその後も大真面目に自己紹介を続けてくる。
赴任時には語られなかった自身の出身大学、家族構成、趣味、好きな動物等など。
一通り話が終わると取締役はキラキラした瞳でこちらを見つめてくる。

「さて、自己紹介は一応終わったけど、他に何か知りたいことはある?何を知ったら朋美さんは俺とキスしたくなる?」
「いや……。自己紹介されただけで人は急にキスしたくなるもんでもないと思いますよ?」

徐々に気持ちが冷めていくのを感じながら、この強引な取締役のことを改めてじっと見つめてやる。

「そっかー。じゃあどうすればいいのかな?何か他に聞きたいことはある?」

取締役に首を傾げて質問を請われても、自分が何が聞きたいのかもさっぱりわからない。
聞きたいこと、聞きたいことねぇ……。
ぐるぐる脳内で反芻していると、ふと先程の言葉が頭をよぎる。

あ、そう言えば2番目に好きって言ってたアレ。
アレは一体何だったのだろう?

何でも聞いてというならば、その話でも聞いてみるか。私は単純に好奇心しかない軽い気持ちで口を開いた。

「で、結局のところ取締役が一番好きなのは、誰なんですか?」
「……え?」

今までとは少し違った、戸惑うような声色の取締役に再度同じ問いかけをする。

「ですから、取締役の一番好きな人ってどなたなんですか?」
「一番ってそりゃ、朋美さん……」
「――じゃ、ないですよね?」

先程までとは異なって、浮かべた笑みはどこか作り物じみている。そんなもので取り繕われても、誤魔化されたりはするものか。

「だって、絶対さっきの取締役の言葉は聞き間違いなんかじゃないですもん」
「……それさあ、そんなに大事なこと?」

微笑みを消した取締役は気怠げに息を吐く。

「今、この時、一緒に二人きりでいるってこと……それが全てじゃないの?」

テーブルに置いた私の手にそっと触れると、ジワジワと指を絡めてくる。
指の間にスルリと滑り込む、無骨な「男」の指の感触。
自分以外の、少し湿った熱い体温。
悪魔的魅力の火種が投下され、またしても体の奥が疼き出す。

――あ、これは、ヤバいやつだ。

気を紛らわせようと、慌てて会話の続きを試みる。

「だ、大事なことですよ!」
「そうなの?」
「そうですよ!これから先に進むにしても、心の準備ってのがありますしっ」

……って、あれ?今私、何か変なこと口走ったような。
ちらりと取締役の顔を覗えば、なにやらキラッキラと輝いた目でこちらを見つめている。

「……と、いうことは、朋美さんは俺とのこれからのことを考えてくれたってことなのかな?」

嬉しそうに微笑む取締役の指が、そっと唇に触れる。

「ふわふわで、可愛いね」
「えっと……」
「やっぱり朋美さんとキスしたいな。ね、もう、してもいいよね?」

そっと耳に髪をかきあげられて、取締役の顔が近づいてくる。
うわ、うわ、うわ――――――!!!!
凄まじい色気に当てられ心臓は爆発寸前。抵抗する事なんて考えることすらできやしない。
このままキスされちゃうの?今?ここで??
でもここって……。
店の中(公衆の面前)ですよねーーー?????

「――っと!だ、駄目ですって!!」

咄嗟に顔を反対側に背けてみる。
危ない危ない。
すんでのところで脳内の危機回避装置が発揮されたことに喜ぶ私とは裏腹に、取締役はご馳走を目の前にして皿を取り上げられてしまった犬の様な顔をする。

「……だって『2番目』って言われたら、気になっちゃいますよ」

そんな顔をされてしまうと、こちらが悪いわけではないはずなのに妙に申し訳ない気持ちになってしまう。
言わなくてもいい言い訳なんか口にすると、取締役は観念したように「そっかあ」と呟いた。

「気になっちゃうなら、説明しないといけないよね」

そしてそのまま頬杖をついてバーカウンターの方へ視線を彷徨わせると、ポツリポツリと語り始めるのだった。


「彼女とはね、学生の頃からの付合いだったんだ」

取締役が持つグラスの中の氷塊が、カラリと音を立てて琥珀の中に沈む。

「1つ上の先輩でね。大学卒業したら国際的に展開してるホテルに就職して……。将来は色々な国で働きたいんだって言っててさ。で、何年かして海外で働けるチャンスが来たって話になって」

当時のことを思い出したのか、瞳をほんの少し潤ませる。

「なるほど……。で、泣く泣くお別れした、と?」
「え?いや、違うけど?」

違うのかい!
てっきり話の流れ上、悲恋に終わった二人を想像していたのだが、どうやらそうではないらしい。
ずっこけそうになりながらも話の続きを促してみる。

「えっと、じゃあ彼女が海外に行かれても交際は続いたんですか?」
「そうだね。……楽しかったなあ。必死になって金を貯めて、休みの度に会いに行ったりしてさ」

当時を思い出したのか目を細めて頬をほんのり染めるその姿は、彼女に一途な男子そのものといったところ。
……そんな表情、するんだぁ。
初めて見るそんな様子に、なぜだか胸がチリリと痛みが走るが、ここは話を進めるのが先である。

「じゃあ、その彼女とは今も……?」
「……いや、結局駄目だった」
「ああ……。やっぱり時差なんかによるすれ違いってやつですか」
「ま、そんなところかな」

知ったかぶって適当な相槌を打つと、取締役は静かに目を伏せる。

「俺は彼女を凄く好きだったけれど、向こうはそうでもなかったというか、ね」
「え」

何か触れてはいけない、デリケートな話題に立ち入ってしまったか。

「えーと、でも、遠距離恋愛をがんばって何年も続けたんですから、それは気の所為なんじゃないですか?」
「……慰めてくれるの?優しいね」

慌ててフォローをしてみると、取締役は泣きそうな顔でふにゃりと笑う。

「俺もまだ入社仕立てで若かったし、向こうも丁度仕事が忙しくなってきている頃だったから、お互い余裕もなかったんだろうな。俺は会いたいのに、向こうは時間がないとかいうことが多くなってさ」

当時のやり取りが蘇ってきたのか、苦しげな口調で吐き捨てる。

「結局向こうから『お互いを高め合えるような相手じゃないと嫌だ、一方的に愛されるのは嫌だ』なんて言われて終わりだよ。……俺は、別れたくなんて……なかったのに」

一気に捲し立てたあと、取締役はすっかり色が薄まったグラスの中身をグイと呷った。

「……ごめん。ちょっと、カッコ悪いね」

気まずそうに目を泳がせるが、そんな弱った姿が珍しくてなんだか可愛らしく見えてしまう。

「いやあ、そんなことないですよ。純愛だったんですね」
「そう……なのかな?」

思わず繋がれた指をギュッと握り締めると、取締役は照れくさそうに微笑んだ。

「じゃあ、それ以来誰ともお付き合いされずにきたんですね……」

 そんな禁欲生活が長く続いていたところに、なぜか私にビビっと感じるものがあったということか。そういうことなら多少強引なのも仕方がないのもしれない。
 ……と、いうかそんな一途だった男の心を動かすとは、私も中々やるもんだなあ。
 一人ニヤニヤ悦に入っていると、なぜか取締役はキョトンとした顔をする。

「……いや、それは違うけど?」
「え?……だって彼女のことが忘れられないって」
「うん。そうだけど……それはそれ、だよねえ」

「それはそれ」?なんだそりゃ。
 訳がわからんと言った顔をする私に、取締役はいたずらが見つかった子供のように、はにかみながら肩をすくめる。

「……だって世の中には可愛い女の子が沢山いるんだよ?そんな子から付き合ってって言われたら……そりゃ付き合っちゃうよねえ?」
「え、でも前の彼女が忘れられないのに?そんなの相手に失礼なんじゃないですか?」
「まあそうだよね。でも俺、ちゃんと『忘れられない人がいるけどそれでもいい?』ってちゃんと毎回聞いてるよ。そしたら『それでもいい』っていうんだもん。……だったら付き合っちゃうよねえ」

 呆れる私に「道理はちゃんと通している」と、謎の主張をしながらエヘンと取締役は胸を張る。

「ええー?そういうものなんですか?そこでなんで純愛を貫き通して、お断りしないんですかあ?」
「え、だって、それはさあ……」

 察して欲しいと云わんばかりにニヤリとする。

「可愛い子に『付き合って』なんて言われたら、その子と気持ちいいことをしてみたくなっちゃうじゃん?だって……男の子なんだもん♡」

 ……いい年こいて、なにが『男の子だもん』だ!
 ほんの一瞬「ちょっと可愛い」とか思ってしまった先程の自分を叱咤する。
こいつはダメだ。
とんだクズだ。
社内的にどうこうと言う前に、関わったら絶対こちらが泣くタイプだ。

「さて……それでは俺の話をしたことだし」

 そんなこちらの気持ちを知らない取締役は繋いだ手を口元に寄せて、そっと私の指先にキスをする。

「ここからは、二人のこれからについて話をしようか?」

 再び瞳の奥に獰猛な肉食獣のような光を宿した取締役は、耳元に顔を近づけそっと囁いてくる。
 ゾクリ、と背筋に甘い震えが走る。あ、これはまずい。このままでは非常にまずい。脳内では「早く逃げろ」と指令が出ているのに、その甘露を貪りたがるように体が全く動かない。

「す、好きな人がいるのに他の人と付き合うだなんて、そんなの不健全ですよ」
「でもさ。お互いに合意してるんだよ?それになにより本能的な欲求を我慢するほうが不健全なんじゃない?」

取締役の吐息が耳をくすぐる。

「やぁ……んっ。そんな声出さないで下さいっ……!」

自分でも驚くほどに、媚びる様な甘ったるい声が出てしまう。

うわ、なんつー声出してんだよ、私っ!!
恥ずかしくなって身を捩るも、逃さないと言わんばかりに両肩を強く掴まれる。

「もしかして……ドキドキしてくれてるの?かわいい」

嬉しそうに微笑む取締役の目には、一体どんな私が映っているのだろう。
ドクドク脈打つ鼓動が煩い。頬がどんどん熱くなる。
取締役の視線とその体温を感じる度に、身体の奥が蜂蜜みたいにトロリと甘く蕩け出してしまう。
暴走寸前。身を投げ出したくなる衝動を抑え、考えを何とか捻り出す。

「あの、でも……」
「まだなにかあるの?」

耳朶に唇が触れるか触れないかの距離感で、ほんの少しの焦燥感を滲ませた取締役の声が響く。

「あるっていうかなんていうか……どうして私なんですか?」
「どうしてって……それも大事なこと――なんだね?」

再び距離を取りながらコクコクと大きく頷く。

「そうだねえ。どうしてなのか……かあ」

上から下まで私を眺めたきり、暫く黙っていた取締役はそっと息を吐いた後ゆっくりと口を開いた。
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