まだ誰も知らない恋を始めよう
 帰る彼に。
 毎日夕食を作って欲しい、と依頼されているので、明日は高級牛肉ではなく、いつもの中央市場に買い物に行くから、と報告すれば。
 何と彼も一緒に行くと言い出した。


「……市場に行くだけよ? 貴方が楽しめるものなんて、無いよ?」

「俺はダニエルと居るだけで楽しいよ。
 何時に集合する?」

「……15時? 市場が閉まるのが16時だから、売り切りが始まる時間まで忙しいよ?
 ゆっくりとしていられないし、生き馬の目を抜く、ってやつで」

「了解! 中央市場か、あの前は何度も通ったけど、中には入ったこと無いなぁ。
 売り切り、って値段が下がるの?
 生き馬の目を抜くんだ? ダニエルと居ると毎日が面白い」

「それはね、初めての経験が多くて、庶民的な感じが珍しくて面白いからだと思うよ」

「庶民的な?……あのさ、俺が元に戻れたら、反対に君が行ったことが無い場所に案内したいと思ってる。
 何処がいいか、リストアップしててよ。
 そこが俺も知らない所だったら、ふたりで初めての経験を楽しもう?」
 

 邪気の無い笑顔で、雇い主からお誘いされても、わたしには返事が出来なくて。
「遅れる遅れる、早く早く」と言いながら、彼の背中を押し出した。



 明日も会おう、と彼が言うから。
 予定が狂った。


 今日は体を拭くだけのつもりが、浴槽にお湯を張り。
 父から贈られた見知らぬ国の、良い香りがするバスソルトを入れて。
 髪と身体を丁寧に洗った。


 ……彼の笑顔に、返事も返せなかったくせに。

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