新海に咲く愛
その夜、貴弘が帰宅した。

スーツ姿でネクタイを緩めながらリビングへ入ってきた彼は、一見すると仕事で疲れた普通の夫に見える。
しかし、その目には苛立ちが宿っていた。

「母さんから聞いたぞ。」

短い一言で奈緒の心臓が跳ね上がる。
「母さん」という言葉――それは貴弘にとって絶対的な存在を意味していた。

貴弘は幼い頃から母親・美智子に厳しく育てられ、その支配から逃れることができずにいた。
そんな彼は、美智子から与えられるプレッシャーをそのまま奈緒へとぶつけることで、自分自身を保とうとしていた。

「スイミングスクールでちゃんとやれてるんだろうな? 母さんに恥かかせるようなことしてないだろうな?」

貴弘は低い声で問い詰める。
その声には怒りだけでなく、不安や焦りも混じっていた。奈緒は俯きながら答える。

「はい……ちゃんと通っています……」

その返事だけでは足りなかったのだろう。
貴弘はテーブルに置いてあったグラスを掴み、それを床へ叩きつけた。
ガラスが粉々になり、奈緒は思わず身を縮める。

「お前、本当に俺たち家族のために努力してるんだろうな? 母さんから何か言われたらどうするんだ!」

その怒鳴り声とともに、貴弘は奈緒の腕を掴んだ。
その力は容赦なく、痛みが走る。奈緒は必死に耐えながら、小さく呟いた。

「すみません……次から気をつけます……」

その言葉だけでは足りなかったようだ。
貴弘はさらに強く腕を握りしめ、そのまま突き飛ばした。床へ倒れ込む奈緒。
その背中には冷たい床の感触とともに、心まで冷え切るような絶望感が広がった。

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