新海に咲く愛
その夜、奈緒はリビングで貴弘の帰宅を待っていた。
いつも通り、彼が帰る時間には食事を整え、家を整然と保つ。
それが「中村家の妻」としての最低限の務めだった。

だが、その日は違った。
玄関の扉が開く音と同時に、貴弘の荒々しい足音が響く。
リビングに姿を現した彼は、スーツのネクタイを乱暴に外しながら奈緒に冷たい視線を向けた。

「お前、母さんになんて言った?」

その言葉に奈緒は一瞬息を呑む。
姑・美智子から何か話が伝わったのだろうか。
だが、思い当たる節はない。

「……何も言っていません。ただ、お義母様からいただいたアドバイス通りに……」

言葉を遮るようにして、貴弘はテーブルを拳で叩いた。その音がリビング全体に響き渡る。

「母さんが、『お前がスイミングスクールで怠けているんじゃないか』って心配してたぞ! 俺たち家族の顔に泥を塗る気か?」

奈緒は必死に首を横に振った。

「怠けている」などということは決してない。
ただ姑の期待通りに振る舞おうとしているだけだ。
それでも貴弘にはその弁解すら許されなかった。

「言い訳するな!」

貴弘は立ち上がり、奈緒の腕を掴んだ。
その力は容赦なく、痛みが走る。
彼女は思わず顔を歪めたが、声には出さなかった。
声を出せば彼の怒りをさらに煽るだけだと知っていたからだ。

「母さんに恥をかかせるなって言ってるんだよ! お前は俺たち家族のために存在してるんだ。それ以外何もいらないんだよ!」

その言葉とともに、貴弘は奈緒を突き飛ばした。
背中から床へ倒れ込む奈緒。その時、彼女の目には涙ではなく虚無だけが浮かんでいた。
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