内緒でママになったのに、溺愛に目覚めた御曹司から逃れられない運命でした。

「フィレンツェには観光で?」
「あ、いえ。仕事です。私、デジタルアーカイブをプロデュースする会社に勤めていて、フィレンツェには同僚達と研修で来たんです」

 藍里が勤務する『デジタルアンドシンクアーツ』はデジタルアーカイブを作成、監修する民間企業だ。
 デジタルアーカイブとは、美術館や図書館に収蔵されている文化的価値のある文書や、工芸品、美術品などをデジタルデータ化し保管・記録されたものを指す。
 劣化や破損による文化的な損失を防ぎ、知的資源をアーカイブ化し公開することで、極めて貴重な資料を後世に継承することができるのだ。
 今回は歴史的な建造物や美術品の多いイタリアにおけるデジタルアーカイブの最新技術やそのノウハウを学ぶため、会社の同僚数名で研修に訪れた。

「へえ、美術品に関わる仕事をしているわけか。どおりで絵を見る目線が違うと思った」
「あなたも仕事ですか?」
「ああ、そうだ。仕事でイタリアに来たときには、この絵に呼ばれているような気がして、いつも足を運んでしまうんだ」

 蒼佑は絵に視線を向けると、ふっと表情を和らげた。
 優しげに揺れる睫毛に、藍里はドキリと胸を震わせた。
 精悍な顔立ちは大人の男性のそれなのに、ふいに見せる表情は子どものようにあどけない。

(不思議な人……)

 同じ絵を好む者同士、ふたりの心はどこかで通じ合っているのかもしれない。

「藍里は海老原清光って知ってる?」

 蒼佑の口からいきなり父の名前が飛び出してきて、ついギクンと肩を揺らす。

「……はい。もちろん」

 藍里はなにごともなかったかのようにカップに口をつけ、コーヒーを胃に流し込んだ。
 美術関係者なら誰でも海老原清光の名前は知っているだろうし、雑誌の表紙やコマーシャルでも父の絵が使われたこともある。
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