内緒でママになったのに、溺愛に目覚めた御曹司から逃れられない運命でした。
きっかけは会社の廊下で、ある企業の社長に声を掛けられたことだ。
その人は、藍里の会社にデジタルアーカイブ作成を委託した企業の社長であり、かつては父の後援者のひとりだった。
父の葬儀の際に顔を合わせたことを覚えていて、藍里に声を掛けたようだ。
『海老原画伯は本当に素晴らしい画家だった!』
『は、はい……』
会社の廊下という場所にも関わらず熱弁が振るわれた結果、藍里の正体は瞬く間に会社中に広まった。
異変が起きたのはその数日後。
『おはようございます』
『お、おはよう……宗像さん……』
藍里がいつも通り出社し挨拶をするなり、同僚たちの会話が途切れた。
最初は気のせいかと思っていたが、日に日に違和感は大きくなるばかり。同僚達の煮え切らない態度の理由がわかるまでには、さらに数日を要した。
どうやら、海老原清光の娘がなぜこの会社で働いているのか憶測が憶測を呼び、変な誤解を招いたらしい。
つまり、後援者に便宜を図った見返りとしての、コネ入社ではないかと疑われたわけだ。
同僚たちは急によそよそしくなり、藍里をどこか遠巻きに眺めるようになった。
率先して引き受けていた雑事も、遠慮がちに断られ、逐一様子をうかがわれる日が続いた。
気づいたときには、藍里は会社でポツンと孤立していた。
たしかに藍里の人生において、父からの影響は計り知れない。
絵について学びたくなり大学も学芸員の資格が取れる学部を選んだし、勤務先も美術関係の企業だ。
藍里としては父は既に故人であり、自分とは切り離して考えていたが、同僚たちはそう思わなかったようだ。
藍里だって悪気があって黙っていたわけではない。
自分から海老原清光の娘だと吹聴するのも変だし、聞かれなかったから答えなかっただけだ。
今さらなにを言ったところで、言い訳にしかならないのが余計に虚しい。