内緒でママになったのに、溺愛に目覚めた御曹司から逃れられない運命でした。
(ありえない)
蒼佑が目の前にいるなんて、まだ信じられない。
多くの人が行き交う街中ならいざ知らず、ここは都心から電車で二時間、閑散とした駅前からバスで三十分ほどかかる山間だ。
人間の話し声よりも動物の鳴き声の方がやかましいくらいの辺鄙な田舎である。
父が生前残したアトリエ兼住居の掃除にやって来た藍里は玄関扉の前に立つ蒼佑を改めて仰ぎ見た。
ひと目で高級品とわかるストライプのダークグレースーツ。
爽やかなブルーのネクタイ。
足もとには、晴れ間の少ない冬の日光を反射するほど磨かれたピカピカの革靴。
こんな山奥の家屋の前に似つかわしくない一分の隙もない完璧な着こなしに圧倒的な美を感じ、ゾクリと鳥肌が立つ。
しかも、こちらを見据える切れ長の瞳には、ほのかな喜びすら滲んでいる。
「どうして君がここに――」
「ママ〜?」
蒼佑が口を開くと同時に、娘の璃子がベビーカーの中から「どうしたの?」と言わんばかりに藍里を見上げる。
青みがかったまんまるの大きな瞳がゆらゆらと揺れる。
璃子の瞳に映し出された自身の姿を見た瞬間、藍里は我に返った。
無遠慮に璃子を見下ろす彼から、その存在を隠すようにベビーカーの前に立ち塞がる。
「その子は?」
「私の娘です」
「娘?」
璃子が藍里の娘だと聞いた蒼佑の顔色がサッと変わる。眉間に皺が寄り、訝し気に眉根が寄せられ、バタバタと忙しなく足を動かす璃子の動きを食い入るように眺め始める。
居心地の悪さを感じ顔を伏せた藍里は、所在なくぶら下げた左手で肩を掴みながら心の中で懸命に祈った。