内緒でママになったのに、溺愛に目覚めた御曹司から逃れられない運命でした。
「よし!」
たっぷり三分ほど待ってから意を決して扉を開けば、チリンと愉快なベルが店内に鳴り響く。
『こんにちは』
『こんにちは、レディ』
藍里が片言のイタリア語で挨拶しながら店内に足を踏み入れると、エプロンをつけたオーナーらしき老齢の男性がニコリと微笑みかけてくる。
挽きたてのコーヒーの香りが漂い、温かみのあるランプが灯された薄暗い店内には、常連らしき老夫婦が二組だけ。
観光客向けのカフェとは異なる素朴な静けさがうれしい。
丹精込めて手入れされた飴色のアンティークチェアからは、ふわりとニスの匂いがした。
座席数は十席に満たないが、オーナーのこだわりを感じる居心地のよい空間だ。
(いったいどこにあるの?)
藍里は視線をあちこち彷徨わせ、店中をくまなく眺めた。
そして、とうとう目当てのものを発見する。
藍里は吸い寄せられるように、ふらふらとしたおぼつかない足取りで店の奥へと歩き始めた。
「あった……」
それは、店の最奥にひっそりと飾られていた。
一瞬にして意識がさらわれ、視界が青色で埋め尽くされる。
藍里が足を止めた壁の前には油彩画が飾られていた。
渡り鳥が滑空する大空とコバルトブルーの大海原。浜辺には白い日傘の女性と少女が立っている。
躍動感あるタッチで描かれた白波からは、今にも潮騒が聴こえてきそう。
350×240センチの長方形のキャンバスの中には、フィレンツェとは異なる世界が広がっていた。