内緒でママになったのに、溺愛に目覚めた御曹司から逃れられない運命でした。
『ここに座ったらどうだい?』
絵に見惚れる藍里のただならぬ様子に何かを感じたオーナーは、油彩画がよく見えるテーブル席に座るように椅子を引いて促してくれた。
『ありがとうごさいます』
藍里はお礼を言うと椅子に座り、カプチーノとサンドイッチを注文した。
注文の品が届くのを待つ間も、絵をじいっと眺める。
タイトルはおろか作者の名前すらどこにも書かれていないが、藍里はこの絵の作者が誰なのか、よく知っている。
作者の名前は海老原清光。
日本の美術界を長らく牽引してきた画家であり藍里の父だ。
今から二十年前、七歳のときに家族旅行で訪れたイタリアで過ごした三週間は藍里にとって楽しい記憶として残っている。
ナポリ、ローマとイタリア各地を巡り、最後にやって来たのがこのフィレンツェ。
家族旅行の最中だというのに、父は夢中になってこの絵を仕上げていた。
旅の思い出を封じ込めたこの絵のモデルは言わずもがな母と藍里である。
そして、完成した絵は旅のフィレンツェの滞在中、いきつけになったこのカフェのオーナーにプレゼントされたのだ。