隠れる夜の月
けれど心の奥では、いまだに、たった一人の名前と面影が消えてくれない。
(先輩……)
あの夜、拓己に与えられた温もり。
肌を撫でた手と、唇の熱。
名前を呼ばれるたびに、甘い幸せが胸を満たした。
でもそれは、望むべきではなかった幸福。だから一度きりの夢にしようと決めた。
(もう終わったこと。……終わらせたこと、なのに)
思い出すと今もなお、胸の奥がつんと痛む。
テーブルの上には、明日会う見合い相手の、写真と釣書が置いてある。
見たら迷いが起きる気がして、受け取ってから一度も、中身を見てはいない。
(私が話を受ければ、お父さんとお母さんのためになる)
(ようやく、お母さんの家族に認めてもらえる)
そう思えばこそ、顔を上げて前に進むことができている。
けれど。
それでもなお、拓己への想いは胸に残って、くすぶり続けていた。
こんな心構えで見合いに行くのは、相手に対して不実に違いない。だが完全に捨てきれない想いであることも否定できなかった。
羽織った着物を畳み、静かに箱に戻す。
夜の静けさの中、三花はふと目を閉じて、ひとつだけ、願うようにつぶやいた。
「どうか、明日は……涙を見せずにすみますように」