君の鼓動を、もう一度
美咲が退院したのは、春の終わり。
桜はすっかり散ってしまったけれど、街はやわらかな陽の光に包まれていて、まるで彼女の新しい毎日をそっと迎えてくれているようだった。

悠斗の住むマンションの一室。
二人が並んで使う食器や、リビングに増えたクッション。
何気ない生活の風景に、美咲の存在が自然に溶け込んでいく。

「ねぇ、これ見て。今日のレシピ、けっこう上手くいったかも!」

キッチンから顔をのぞかせる美咲に、悠斗は静かに微笑む。

「そうか。……でも、油の量が多すぎる。ほら、塩分も控えめにな」

「うっ……医者の小言入りました〜」

「お前の主治医だ。遠慮なく言わせてもらう」

「……ありがとね、そういうとこが好き」

不意にそう言われて、悠斗の手が止まる。
表情こそ変えないが、少しだけ耳が赤くなったこと、美咲はちゃんと気づいていた。



夜、ソファに並んで座る。
テレビはついているけど、どちらも見ていない。
静かな時間が、ただ心地よく流れていく。

「今日ね、大学の友達が連絡くれたの。戻ってきたら顔見たいって」
「……行ってくればいい。無理のない範囲で、な」

「うん。……ちゃんと、話すつもり。今の病状も、これからのことも」

そう言って、少しだけうつむいた美咲の横顔を、悠斗は静かに見つめる。

「俺は、お前がどんな道を選んでも、ちゃんと見届けるよ」
「……ほんとに、優しすぎてズルいよね、悠斗」

「そうか?」

「うん。でも……すごく幸せ。こうやって、毎日ちゃんと“今日”が来るのが」

彼女が紡ぐ言葉はどれも、胸に染み込んでくるようだった。
限りある時間を意識しているからこそ、一瞬一瞬が、まるで宝物のようだった。



ある日――

「悠斗、ちょっと来て。ベランダ!」

「どうした?」

「ほら! ほらほら、見て! 夕焼け、すっごくきれい!」

ベランダ越しに、西の空が燃えるような茜色に染まっている。
それを見上げながら、美咲は無邪気な笑顔を浮かべていた。

「……生きてる、って感じするね」

その一言に、悠斗は何も返せなかった。
ただ、隣に立ち、彼女の手をそっと握った。

「ありがとうね、悠斗。……あの日、助けてくれて」
「お前が、“生きたい”って言ってくれたから、だよ」

ふたりは肩を寄せ、風に吹かれながら、沈みゆく夕日に目を細めた。

“明日”がどんな日でも、今だけは、確かに幸せだった――。
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