君の鼓動を、もう一度
朝、目覚めると、キッチンから小さな音がする。
コーヒー豆を挽く音、食パンがトースターで焼ける匂い――

「……おはよ、もう起きてたんだ」

悠斗が寝室から出てくると、美咲がエプロン姿で振り返った。
まだ少し寝癖の残った髪を無造作に結んで、いつものように明るい笑顔を浮かべる。

「今日は私が作る番。朝ごはん、ちゃんと栄養バランス見たんだからね?」

「ほう、栄養指導の成果が出てきたな」

「でしょ? 栄養士さんにもなれるかも」

「それは言いすぎだ」

そんな冗談を言い合いながら、並んで朝食をとる。
ありふれた光景だけど、どこか特別で、愛おしい時間。



午後には、二人で近所の公園まで散歩に出かける。
満開のつつじが風に揺れ、子どもたちの笑い声が遠くで響いている。

「ここ……昔、おばあちゃんと一緒によく来たんだ。
 ベンチで休みながらアイス食べたりしてさ」

「その頃はまだ、病気もなかった?」

「うん、ほんの短い間だったけど、何も気にせず走り回れてた」
美咲はそう言いながら、小さく笑った。

悠斗はそっと彼女の手を取る。

「走れなくても、笑えなくても、お前はお前だ。
 その時間を、これからも一緒に重ねていきたい」

「……うん。ありがとね、悠斗」

ふたりは手をつないだまま、ゆっくりと歩き続けた。



夜、バルコニーで夜風に吹かれながら――
美咲はカップに入れたミルクティーを両手で包んで、ぽつりと話し出す。

「ねぇ、悠斗。もしあと半年しか生きられなかったら、何したい?」

悠斗は一瞬だけ黙ったあと、静かに答える。

「全部、お前と一緒に過ごす。……それだけだ」

「……ずるいね、ほんと」

言いながら、美咲の目がほんの少し潤む。
それを見て、悠斗は彼女の頭をそっと撫でた。

「半年なんて、あってもなくても関係ない。今が全部だ。……そうだろ?」

「……うん。今が全部。私も、そう思いたい」

ふたりは寄り添ったまま、ゆっくりと星空を見上げていた。
この“何気ない日常”が、彼らにとって何よりも大切な宝物だった。




その日、美咲は大学の図書館へ久々に足を運んでいた。
友人とレポートの資料を探すためだったが、日常に少しずつ溶け込めている自分を感じて、嬉しさと寂しさが交差していた。

(“普通”って、こんなに眩しかったんだ……)

ふと見上げた窓の外。木漏れ日が差し込み、春の終わりを告げる風が揺れている。
そのとき、美咲のスマホが震えた。

「……翔太?」

『おーい、今ヒマ? ちょっと付き合ってほしいことがあって』

「うん、ちょうど終わったとこ。どこ?」

『グラウンド。サークルの試合見に来ててさ、ひまつぶしにアイスでも食おうぜ』

「ふふ、翔太らしい」



公園のベンチで並んでアイスを食べながら、翔太がぽつりとつぶやく。

「最近、楽しそうだよな。……兄貴と一緒にいて」

「うん。たぶん、今がいちばん幸せ」

「……そっか」

翔太は少しだけ目を細め、青空を見上げた。

「でもさ、全部に慣れてきたときが、いちばん怖いんだよな。
 “ずっとこうしていられる”って錯覚しちゃうから」

美咲は、その言葉に返事をしなかった。
ただ静かに、手の中のアイスが溶けていくのを見ていた。



夜、帰宅した美咲を迎えたのは、キッチンに立つ悠斗だった。
エプロン姿に思わず笑ってしまいながらも、美咲の表情はどこか曇っていた。

「今日、翔太と会った」

「そうか。……何かあった?」

「ううん、楽しかったよ。でも……」

美咲はふと黙り、目を伏せる。

「“慣れるのが怖い”って言ってた。確かに、私も最近、忘れかけてた。自分が、病気だってこと」

悠斗は静かに手を止め、彼女の目をまっすぐ見つめた。

「それは……悪いことじゃない。
 忘れるくらい、笑える時間があるってことだ」

「……そう、だよね」

「だけど――」

悠斗の声が、少しだけ硬くなる。

「どんなに日常に馴染んでても、お前の心臓は“忘れない”。
 だからこそ、俺が覚えていなきゃいけない。
 ……ちゃんと、守るために」

その言葉に、美咲の目がふっと潤む。

「……守ってくれて、ありがとう」

静かに寄り添い、夜は更けていく。
次の朝、ふたりの時間はいつもと変わらずに始まる……はずだった。











――けれど、その“当たり前”が崩れるのは、ほんの数日後のことだった。
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