お嬢様、庭に恋をしました。

近づいたら、もう戻れない。たぶん。

朝、起きて最初に思い出したのは、
傘の中で並んで歩いた昨日のことだった。

──近かった。

物理的にも、心拍数的にも、完全にアウトな距離感だった。


(なにあれ。傘ひとつで人生変わるの?)

いや変わらない。でも、ちょっとだけ変わったかもしれない。
何気ない会話も、目が合った時の一瞬も、全部が頭から離れない。

「は〜〜〜無理……仕事に集中できる気がしない……!」

朝からデスクに突っ伏しながらうめいた。
そんなときに限って、チャット通知。

美羽:おはよ。

恋の話しようか?

「なんで分かるのこの人!!?」

叫んだ声が思いかけずオフィスに響いてしまった。
 
***
 
その日は、庭に出なかった。
出ようとして、サンダルまで履いて、戻った。
理由は……わかってる。

「会ったら、たぶんまたドキドキする」

距離が近づいたことで、意識しすぎてしまう。
それが自分で分かってるのが、また恥ずかしい。

(ていうか、なんで私が逃げてるの……?)

いやいやいや、そもそも恋とかじゃないし!
ただちょっと、雨の日に優しくされたくらいで!

調子に乗るな私!!(セルフ喝)
 
でも、次の日も、庭に出なかった。
その次の日は、タイミングを逃した。
……そして、三日目。

「……あの、お加減でも悪いんですか?」

背後から、聞き慣れた声。

振り返ると、リビング横の廊下越しに悠人がいた。

作業終わりで、帽子を外して、髪が少し乱れている。

その姿に、無意識に息が詰まりかけた。

「え、えっ!? いえ、ちがっ……あの、そのっ……」

「庭、顔出さなくなったので」

「いや!なんかこう、いろいろあって!体調も天気も感情もごちゃごちゃで!」

「ごちゃごちゃなんですね」

「まとめないでください!!」

恥ずかしさMAXで顔を覆いたくなった瞬間。
悠人の手が、そっと帽子を握りながら、口元だけ緩んだ。

「……なら、落ち着いたらまた来てください」

「……え?」

「アナベル、咲きそろってきてますから」

ああもう。
名前呼ばれたわけでもないのに、今、ちょっと心臓が跳ねた。

(ずるいってば)

こっちが距離を取ろうとしてるときに、
なんでそんなやさしさ投げてくるの。
 
その日の夜、舞花はサンダルを並べ直して、
そっと明日の服を考えていた。
 
近づいた距離に戸惑って、
それでもまた会いたくなってる自分がいる。
恋ってほんと、
計算もプランもきかない。
***

 
その日の夕方。

作業を終えた悠人は、片づけた剪定バサミを車の荷台に積みながら、
ふと、空を見上げた。
明日は晴れる。

久しぶりに、ちゃんとした日差しが差し込むらしい。

──咲きそろってきたアナベルのそばに、
彼女が戻ってくるといい。
 
「……そろそろ、顔、見たいな」

小さくこぼれたそのひと言は、
庭の風だけが、そっと拾っていった。
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