お嬢様、庭に恋をしました。

わたしの日常に、あなたが滲んでくる

駅前のカフェでテイクアウトしたラテを片手に朝9時過ぎに、
舞花は編集部のエントランスをくぐった。
 
月曜の朝は、なんだか空気が乾いていて、
エレベーターの中でも、皆どこかまだ週末の気配をまとっている。
 
「おはようございまーす」

「舞花さん、おはようございます。週末のラフ、確認しました」

「ありがと。今日、1時間くらい空けておくね」
 
自席に着き、パソコンを立ち上げると、
デスクの上の花瓶に飾った小さな白い花がふと視界に入った。

「……アナベルみたい」

思わず、小さくつぶやいていた。
 
Web編集の仕事は、華やかに見えて、わりと地味で地道だ。
写真、レイアウト、構成、キャッチコピー。
すべてがちょっとずつ噛み合わないと、完成形にはならない。
 
《例の特集、今日中に公開OKにしたいです〜!》
《“風に揺れるアナベル”の表現、舞花さんっぽくて好きでした♡》
社内チャットの通知に、目尻がふっとゆるむ。
(“風に揺れるアナベル”……また言われた)
 
カチカチとキーボードを打ちつつ、
画面に映る白い花の写真を見つめていると、なぜか少し胸がざわついた。
 
──この感じ。
最近、よくある。
仕事に集中しているはずなのに、
ふとした拍子に“あの人”がよぎる。
 
(……また思い出してるし)
 
椎名さんの声、
指先、
庭のベンチで交わした、あの静かな沈黙。
 
(庭の話でも、虫の話でも、全部ぜんぶ、頭に残ってる)
恋って、どこかに落ちてるわけじゃない。
きっとこうして、日々の中に少しずつ染み込んでいくんだ。
 
時計の針は、もうすぐ午後3時。
画面の向こうにはたくさんの人がいるけれど──
その中に、“会いたい誰か”がいるわけじゃない。
 
(やっぱり、庭って、特別だったんだな)
そう思った瞬間。
また、あの白い花が画面の隅に咲いていた。

***

仕事から帰り、夕食を済ませ、
舞花はカフェラテの入ったマグを片手に、庭へ出た。
 
昼間の熱がすっかり引いた風は、やさしくて、少しだけ冷たい。
頬に触れる空気の感触が、昼とはまるで違う。
 
庭のベンチに腰を下ろして見渡すと、
どこもかしこも静まり返っていて──
 
(……昼間は、あそこに悠人さんがいたんだよな)
 
花壇のそば。
木陰のあたり。
剪定バサミの音と、軍手をした手。
黙々と作業していた、あの姿。
 
今はいない。
 
それだけのことなのに、
庭全体に、ぽっかりと空白ができたような気がした。
 
まるで、そこだけ時間が止まってしまったみたいな、静けさ。
 
(……いないんだな、今日は)
 
庭の灯りがふわりと揺れて、白いアナベルの花がかすかに揺れる。
昼間は賑やかに見えた景色が、夜になると、こんなにも“足りない”。
 
ほんの数日前まで、
誰が庭にいても気にも留めなかったはずなのに。
 
今は、その不在がやけに寂しく感じてしまう。
 
カフェラテをひと口。
熱はもう、少しぬるくなっていた。
 
 






< 27 / 85 >

この作品をシェア

pagetop