お嬢様、庭に恋をしました。

踏み出せないのは、君が大切だから

名前を呼んだとき、
彼女が少しだけ、目を見開いたのを覚えている。
手を掴んだとき、
驚いたように立ち止まって、でも逃げなかった。
 
──本当は、昨日の時点で分かっていた。
自分が、舞花さんに惹かれているということ。

けれど、それを認めてしまえば、
たぶん、これ以上は“仕事として”いられなくなる。
 
(……それでも、掴んでしまった)
何かにつまずいたわけでもない。
よろけそうだったわけでもない。

ただ、帰ろうとした彼女の後ろ姿が、
遠ざかるようで、怖かった。

このまま行かせたら、
きっと後悔する気がした。
だから、あの時は迷わなかった。
 
──けれど。
今日、和室で目にしたものは、
それとは正反対の現実だった。

「“お願いする側とされる側”という関係は、ちゃんと理解しないとね」

あの言葉が、頭から離れない。
舞花さんのことを見ていたはずなのに、
その一言で、自分の立っている場所がくっきり見えてしまった。
 
(俺は、彼女にとっての“庭師”であって、それ以上じゃない)

わかっていたつもりだった。

でも、心のどこかでは──
もしかして、もう少し近づいてもいいんじゃないかって思っていた。

昨日、あんなふうに手を掴んで、
名前で呼んで、
「行かないでください」なんて言って。

そんなふうに、
本気になりかけていた自分が、
今日の“線引き”ひとつで、急にちっぽけに思えた。
 
(……違う世界の人間なんだ)

それをわざわざ言葉にする必要もなく、
ただ、その場の空気がすべてを物語っていた。
 
だから──
次に彼女に会ったら、
きっと、いつもより少しだけ距離を取ってしまうと思う。
話す言葉も、
視線も、
空気も。

それは、あの日の手とは逆の動き。
 
だけど、それでも。
 
(──本当は、掴んだ手を、離したくなかった)
 
心の奥底で、まだそう思っている自分がいることが、
いちばん情けなくて、いちばん、どうしようもなかった。

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