お嬢様、庭に恋をしました。

一歩、踏み出したのに

翌日、在宅勤務のタスクを午前中で切り上げて、
舞花はお気に入りの紅茶をマグに注いだ。

庭で紅茶を飲みたかったわけではない。
悠人に会う口実はこれしかないから。
昨日、美羽に言われた言葉が、まだ心の中に残っている。
──「落ちたんじゃなくて、自分から飛び込んでるやつだよ」

(……うん、たしかに)

わたしは、あの人にちゃんと“惹かれている”。
だったら、このまま距離ができるのを黙って見てるなんて、いやだ。
少し迷ったあと、舞花はマグを片手に、庭へ向かった。
 
ベンチの前。
ちょうど、椎名さん──悠人が作業を終えようとしているところだった。

「……あの」

思わず声が出る。

「先日のこと、気にしてますか?」

悠人の手が止まった。
彼はほんの一瞬だけ舞花を見たが、すぐに視線をそらした。

「……いえ。仕事に支障はありません」

「そういうこと、聞いてるんじゃなくて……」

舞花は、胸の中にあった言葉を、そっと口に出す。

「昨日、手を掴んでくれて、名前も呼んでくれたじゃないですか」

「……」

「うれしかったです。……すごく、うれしかった」

風が、ひとすじ吹いた。
草の香りがふわりと舞って、
それでも悠人は、何も言わなかった。
 
「でも、あれからの椎名さんは、ちょっと遠い気がして」

舞花の声は、ほんの少しだけ震えていた。

「……私、何かしましたか?」

悠人はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、どこか痛みを抱えていた。
 
「……違います。お嬢様は、なにも悪くない」

「じゃあ──どうして」

「……たぶん、これ以上近づいちゃいけないんだと思ったんです」

「え?」
 
「昨日、あんなふうに手を掴んだのは……俺の勝手でした。
……あなたは、俺とは違うのに勘違いしてしまいました。」
 
──ああ。

やっぱり、母の言葉が、彼にも届いていたんだ。
舞花は、ぐっと唇を噛んだ。
 
「……でも、それでも、私は近づきたいって思った」

「……ありがとうございます。でも、俺は──」
 
悠人が言いかけて、口を閉じた。
その目に、迷いと、優しさと、そしてほんの少しの痛みが混じっていた。
それ以上は言えないというように、
彼はゆっくりと舞花に背を向けて、作業道具を持ち直した。
 
「……作業、もう少しだけ残ってるので。失礼します」
 
足音が遠ざかる。

「……あ」

呼び止めたかった。
でも、声が出なかった。
(近づいたのに──)

一歩、踏み出したのに。
その手が、またふいに離れていった。
 
──それでも、わたしは、
好きになってしまったんだ。

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