お嬢様、庭に恋をしました。

触れたいのに、届かない

「昨日、手を掴んでくれて、名前も呼んでくれたじゃないですか」

「……うれしかったです。……すごく、うれしかった」
 
──あの言葉が、胸に残っている。
彼女の声は、真っ直ぐだった。
誤魔化してない、飾ってない。
俺の行動をちゃんと受け止めてくれた声だった。
 
なのに、俺は──
応えなかった。
 
「……これ以上近づいちゃいけないんだと思ったんです」

そう言ったとき、
彼女の顔が、少しだけ曇ったのが分かった。

分かってて、あえて言葉を選んだ。
本音じゃない。
でも、いま言える精一杯だった。
 
(違う世界の人、か)

昨日、和室で彼女のお母さんと向き合ったとき、
その言葉が、頭にこびりついた。

「変えていいもの」と「変えてはいけないもの」がある──

俺はその“変えちゃいけないもの”に、
触れかけていたんだと気づいた。

舞花さんのことを、本気で好きになるということは、
その境界線に足をかけるってことだった。
 
(もしも、俺がもっと違う立場の人間だったら)

もっと堂々と、手を掴んで、名前を呼んで、
そのまま恋をしてもよかったのかもしれない。

けれど──

有栖川家の庭に出入りする“ただの庭師”である俺には、
その一歩が重すぎた。
 
(……でも、だったら、なんで手なんか掴んだんだよ)

心の中で、自分に問いかける。
あのとき。
舞花さんが帰ろうとしたとき。
俺の手が動いたのは、ただの衝動じゃなかった。
 
「行かないでほしい」って、
そう思ったのは、きっと本音だった。
手を離したくないって、そう思ったのも──
嘘じゃない。
 
なのに今、こうして距離を取ってしまってる。
理由は分かってる。
けれど、納得はしていない。
 
(……もう、触れる資格がないと思ってるだけだ)

自分で線を引いて、
自分で一線を越えて、
自分でまた引き戻してる。
何やってんだ、俺は。
 
それでも、ふと目を上げると──
庭の端に立って、そっとこちらを見ている舞花さんの姿があった。

目が合いそうで、合わせられなくて、
視線を外してしまう。

でも、心は見てる。
たぶん、誰よりも見てしまってる。
 
(……こんな気持ちになったの、初めてだ)
 
だから怖い。
でも、だからこそ──
また、近づきたくなってしまう。
 
次、声をかけられたら、
もう距離なんて保てる自信がない。
 
──今度こそ、ほんとうに、
触れてしまいそうな気がしていた。

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