お嬢様、庭に恋をしました。

名前を呼ばれたら、泣いてしまうから

降り始めた雨に気づいたのは、
オフィスを出た直後だった。
 
(あ、傘……置いてきた……)

出社の日に限って、こうなる。
たまたまなのか、それとも“そういう運命”なのか、
そんなことを考えてしまうくらい、今の舞花は思考がぐるぐるしていた。
 
(……庭にも、最近出てない)

悠人がいるかもしれない、と思うと
少しだけ怖かった。
何を話せばいいか、わからなくなるから。

(……でも)

やっぱり、見たい。
会いたい。
それが、正直な気持ちだった。
 
そんな中──
横断歩道を渡ろうとした瞬間。
信号の向こうに、黒い傘が見えた。
 
(え……)

その傘の下にいたのは──
間違いなく、椎名 悠人だった。
 
作業服の上に黒いレインパーカー。
片手で傘を持ち、もう片方で、スマホを操作していた。

でも──
その手が止まり、ゆっくりと顔が上がる。
 
目が合った。
一瞬だけ、呼吸が止まった。
 
「……舞花さん」

名前を呼ばれた瞬間、
鼓膜の奥が、じんわり熱を持つ。
 
信号が青に変わる。
椎名が、小走りで傘を差し出した。
 
「びっくりした……ここで会うなんて……」

「……同じこと、思ってました」

「今日は作業じゃ……」

「資材の受け取りに、こっちまで来てたんです。そしたら、降られて」

「私も、傘忘れて……」

「……じゃあ、あそこ、入りますか」

悠人が視線を向けたのは、
ガラス張りの小さなカフェだった。

木の看板に書かれた店名と、
アンティーク調のランプがやさしく灯っていて、
店内からは微かにコーヒーの香りが漏れていた。
 
言われるまま、ふたりはカフェのドアをくぐる。
ガラス越しに雨が落ちる音だけが響いていて、
その静けさが、どこか心地よかった。

 
しばらく、沈黙。
そして──
 
「……あのとき」

不意に、悠人が口を開いた。

「俺、見てしまって。あの人と、話してるところ」

舞花の心が、跳ねた。

「……でも、話しかけることができなくて。
そのまま、帰ってしまいました」
 
「……そっか。やっぱり、見てたんだ……」

舞花の声が、少し震えた。
 
「誤解されたくなかった。ちゃんと説明したかった。……でも、言えなかった」

「……知ってます」

「え?」

「あなたが、何も言えないような空気だったのも、ちゃんと分かってました」
 
そう言って、悠人は、ほんのすこし視線を落とした。
 
「だから、距離を取ったのも、俺の勝手です」

「……ううん、私も──」
 
「でも」
悠人の声が、少しだけ強くなる。

「それでも……来てほしかったんです。
言葉にならなくても、“俺の方”を、選んでほしかった」
 
舞花の目が、大きく揺れる。

「……椎名さん……」
 
「……わかってます。俺がそう思うのは、おかしいって。
でも──それくらい、あなたのこと、考えてました」
 
雨の音が、静かに響く中。
ふたりだけの空気に、鼓動が重なった。
 
名前を呼ばれるのが怖くて、
でも、嬉しくて。
それを隠せなくて。
 
──もう、“線”なんて見えなかった。

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