お嬢様、庭に恋をしました。

それでも、手を伸ばしたくなる

──見なければよかった。
でも、あのとき、どうしても目を逸らせなかった。
 
舞花の隣に立っていたのは、
自分が一度も見たことのない表情を浮かべている男だった。

スーツが似合って、
姿勢もよくて、声も落ち着いていて。

──自分が“庭”で汗を流している間、
あの人は、舞花の“家の中”にいる。
 
その違いが、痛いほどに突きつけられた。
 
(俺は……ただの庭師だ)

代々続く仕事を、俺はただ、黙ってやってるだけだ。

有栖川家の敷地に入れるのは、
「信頼されてる職人」としてであって、
“彼女に近づくための許可”じゃない。
 
──“ああいう人”が、舞花の隣にいるんだ。

名前を呼んだくらいで、
手をつないだくらいで、
少し距離が近くなったくらいで。
調子に乗ってたのは、俺の方だった。
 
だから、何も言わずに
あの場から離れた。
 
(でも……)
 
それで、終われるなら、
どれだけ楽だったか。
 
「また明日、庭で」って言われたことも。
「昨日……嬉しかった」って言ったあの笑顔も。
ひとつひとつが、頭の中から離れない。
 
(……もう、引けないって思ったくせに)

たった数歩、引き下がっただけで、
あっという間に遠くなった気がする。
 
「線を越えるな」と言われたわけじゃない。
でも、確かにそこに“境界線”があるのを感じてしまった。
 
舞花は、きっと何も悪くない。

きっと、偶然だった。
きっと──説明しようとしてくれたのかもしれない。
でも、俺はそれを聞かずに、背を向けた。
 
(ずるいのは……俺の方かもしれない)
 
それでも──
それでも。
 
名前を呼びたい。
もう一度、手をつなぎたい。
笑ってくれる顔が見たい。
 
“届かない”と思ったくせに、
心だけは、どうしても、また近づこうとしてしまう。
 
(……どうしたら、あの距離に戻れるんだろう)
それを考えてる時点で、
もう、俺の心はまだ、彼女の隣にいる。
──そんなこと、もう認めたっていいのに。

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