お嬢様、庭に恋をしました。

好き、だけじゃ、だめ?

廊下の奥、
母の部屋の前に置かれた椅子にふたり並んで座ると、
空気がいつもよりずっと静かだった。
 
「舞花」

「……なに?」

「最近、ずいぶんと庭にいる時間が増えたわね」

「……うん。まあ、癒しスポットだから」
 
母は、すぐには言葉を返さなかった。
けれど、何かを組み立てるように、ゆっくりと口を開いた。
 
「お父様のこと、覚えてる?」

「……え?」
 
「昔、ある会社の女性と、お付き合いしていたことがあったの。
でも“有栖川”の名を継ぐ者として──って、
祖父から猛反対を受けて、別れた」
 
「……うん、なんとなく聞いたことある」
 
「結局、お父様は“家のために”結婚を選んだの。
あなたのことは大切にしてくれている。
でも、あのときのことを思い出すと、
いつも少しだけ、切ない顔をしていたわ」
 
舞花は、言葉を飲み込んだ。
 
「舞花。あなたの人生は、あなたのものよ。
でも“有栖川”という名が、
どれだけの責任を背負ってきたか、少しは考えてほしい」
 
「……」

「あなたの気持ちだけで、
全部進めていいと、本気で思ってる?」
 
言い方はやさしい。
でも、芯はまっすぐに突き刺さる。
 
「──それでも、好きなんだよ」

思わず、口からこぼれた。
 
母が少しだけ目を見開く。
 
「本気で恋したの、初めてだった。
“ふさわしい相手”じゃなくて、
ちゃんと、わたしの“心”が選んだ人なの」
 
「でも、あの人は──」

「……“あの人”なんて呼ばないで」

舞花の声が、静かに重なる。
 
「椎名さんは、ちゃんと自分の足で立ってる。
誰にも頼らずに、ちゃんと、自分で信頼されてる人だよ」
 
「有栖川の娘だからって、上から選ぶみたいなこと、したくない」
 
しん、とした空気が落ちた。
 
母は何も言わなかった。
でも、なにも否定もしなかった。
 
ただ──
ほんの少しだけ、目を伏せてつぶやいた。
 
「……簡単じゃないわよ」
 
「わかってる。
でも、簡単じゃなくても、選びたいって思ったの。
それくらい、大事なんだよ」
 
その言葉が、空気に沈んだあと、
母はゆっくりと立ち上がった。
 
「お茶、淹れるわね」
それだけを言って、台所へと向かう。
 
──きっと、まだ“許された”わけじゃない。
でも、伝えたことに意味があった気がした。
 
この気持ちは、誰のものでもなくて、
自分のものだから。
簡単には、手放さない。

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