お嬢様、庭に恋をしました。

いつもの場所に、彼はいなかった

月曜の午後。
在宅勤務を終えた舞花は、
お気に入りのマグを片手に、いつものように庭へ向かった。
昨日の余韻がまだ胸に残っている。
心臓の奥が、ほんのりあたたかいまま。
 
「……今日も来てくれてるかな」
 
夕焼けの光が差し込む庭に、
どこか特別な期待を込めて歩いていく。
 
でも──そこにいたのは、
いつもの“彼”ではなかった。
 
「あっ……高橋さん」

「おや、舞花さん。こんにちは。
今日から、またこちらに入らせていただいてます」
 
……え?
今、“また”って言った?
 
「えっと……椎名さんは?」
 
「ああ、椎名くんね。今朝、本部の方から連絡があって。
しばらく別の現場を担当することになったって」
 
舞花は、一歩、足を止めた。
 
「え……私、何も聞いてなくて……」
 
マグを持つ手が、わずかに震える。
 
昨日、あんなふうに言ってくれたのに。
“そばにいたい”って言ってくれたのに。
なのに、何も言わずに、いなくなるなんて。
 
──いや、違う。
きっと悠人だって、望んだわけじゃない。
じゃあ……これは。

(まさか……お母さんが?)
 
ぐらり、と足元が揺れるような感覚。
庭の静けさが、急に冷たく感じた。
 
「大丈夫ですか、舞花さん?」

「……はい。大丈夫です」
 
高橋さんの穏やかな声が、
今は妙に遠く聞こえた。
 
舞花は、ベンチにそっと腰を下ろした。
マグの中のカフェラテは、少しぬるくなっていた。
 
──さっきまでの、あたたかさが消えていく。
“いつもどおり”の庭が、
今日はなぜか、まったく違う場所に見えた。
 
椎名 悠人がいないだけで、
世界の色が、こんなにも変わってしまうなんて。
 
舞花は空を見上げた。
 
「……勝手に、決めないでよ……」

誰に向けたのか、自分でもわからない言葉が、
静かに風に溶けていった。


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