お嬢様、庭に恋をしました。

離れるって、決めたのに

俺に届いた──その知らせは、
あっけないほど簡単だった。
 
「椎名くん、有栖川家の担当は今日までね」

事務的に告げられた言葉に、
悠人はただ「わかりました」とだけ答えた。
反論するすべも、資格も──なかった。
 
(最初から、“そういう立場”だった)
 
有栖川家の庭を任されたのは、運がよかっただけ。
跡を継ぐ高橋さんが戻ってくれば、
自分の居場所は、自然と消える。
 
「“好き”って、言わせたのに……」
 
工具を入れた鞄を、ぎゅっと握る。
 
昨日の彼女の言葉も、
あの笑顔も、抱きしめたときの温度も。
まだ、手のひらに残っている気がした。
 
なのに──
なにも言わずに去るなんて、
ひどすぎるって、自分でも思う。
でも。

(“言わない”ことしか、できなかった)
 
「椎名さんは、大丈夫だよ」

「ちゃんと認めてもらうから」
 
舞花の笑顔がよみがえる。
信じてくれた。
未来を一緒に見ようとしてくれた。
 
それなのに。
何も守れないまま、
ただ庭から消えることしかできなかった。
 
(距離を置けば、想いは薄れるかもしれない)
(あの家の人間には、やっぱり釣り合わないと思うかもしれない)
 
そう思っていた。
そう、思おうとした。
 
でも。
時間が経つほどに──
ふとした瞬間、舞花の声がよみがえる。
言葉。笑い声。
ちょっとすねたような顔。
虫を怖がる顔。
 
全部が、
戻りたくなる理由になっていく。
 
(……会いたい)
 
その一言が、
いつの間にか、胸の中を埋め尽くしていた。
 
(……まだ、終わらせたくない)
 
なのに、
彼女のところへ戻る理由が、今の自分にはない。
戻る言い訳も、立場も、肩書きも──何もない。
 
──でも。
 
(もし、“もう一度”があるなら)
 
「今度は、引かない。
……ちゃんと、向き合うから」
 
風が、ゆっくり吹き抜けた。
その先にいる彼女のことを、
ただ一人きりで、想っていた。

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