元悪役令嬢、悪女皇后を経て良妻賢母を目指す 〜二度目は息子に殺させない〜
37. もう一人の『やり直し』
「……なぜ?……ちゃんとした理由もなく降りるなど、許しませんよ。ねぇ?」
「あぁ、皇后の言うとおりだ。それともあれか?まもなく立太子という今になって……まさかとは思うが、怖気付いたのか?」
アルが、整いすぎた顔をわざと歪めて。
言葉の抑揚には、戯けた色すら見て取れる。
「……いえ、そんなことではありません。どうやら私は……皇位を継いではいけない人間のようです」
その宝石のような緑の目、それをアルに真っ直ぐ向けて。
揺るがない決意を表明するかのように、しっかりとした口調でマリシスは応じた。——アルの父親としての努力も虚しく、その顔に笑みはない。
誰よりも自分を大切にして欲しい。
私たちは、そんな気持ちでこの子に向き合ってきた。
いずれは皇帝にと決めた子に、求めて良いことではないと知りつつも。
そしてその思いは今も変わらずで——。
強く育てたと確信を持てる今となっても尚、この子が苦しめば私たちも同じように苦しむのであった。
「まぁいいわ。久しぶりに夕食の後、三人でお茶でもいただきましょうよ。これは皇帝としての命ですわよね、陛下?」
マリシスからの申し出、弟を皇太子にして欲しいという言葉を受けて。
私たち夫婦は、なかなかの衝撃を味わった。
彼が幼い頃からつい最近まで、私たちはマリシスとのティータイムを欠かしたことがない。これは彼を養子に迎えた日、アルと私の間で決めた方針の一つだ。
乳母の手を存分にかりることのできる私にとって、その存在に勝てる唯一の方法だったから。
まぁとにかく簡単に言えば、育児の方針などと言うには烏滸がましい。
私たちなりの努力の形だったわけだ。
なのにそれでも、私たちは彼の異変に気付くことができなかったと言うのか?
◇
約束の時間ちょうどにやってきたマリシスは、いつになく暗い。
元気がないのとは違う。
何かを抱えてしまったような表情で、私たちの前に現れた。
「父上、母上、お待たせいたしました」
「よく来たな、そこに座れ」
マリシスが席につくと私は、懐かしい思い出を話し始めた。
本題を急ぐことに、無意識の不安があったのかもしれない。
いや、間違いなく私は——解決できない話を聞かされることを恐れていたのだ。
「ねぇ覚えてる?あなたがまだ5歳の頃だったかしら。オウルード夫人に言われて、厨房の菓子職人に弟子入りしたことがあったでしょう?たった一日だったけど。その時のクッキーを再現してもらったのよ」
どこの家でも母親が子供にしてやるように、茶菓子をマリシスの皿に取り分けて。一番好きなナッツの入ったのを、多めに盛り付けて見せた。
「これは懐かしいですね……母上。でも私が作ったものより、だいぶ美しいな」
マリシスは愛おしむような視線をクッキーに落とした後、同じように私のことを見て明るく表情を変えた。
「いいえ、あなたが作ったクッキーが一番なのよ。私たちにとっては、マリシス……あなたが作ったクッキーだから……美味しかったし特別だったのよ」
私は席を立って、向かいに座るマリシスの横に膝をついた。
手を握ってやれば、それはまだ華奢で——。
そして冷たくて、小刻みに震えてもいる。
毎日顔を合わせて、言葉を交わすこと。
それさえ怠らなければ、互いに理解し合うことができる。
何より、マリシスの心に少しずつでも『自信』を育てることができる。
少なくとも私は、そう思っていた。
だから、本当にショック。
私たちが彼に伝えたと思い込んでいたもの——『自信』『自己肯定感』はどこへ行ってしまったのかしら?
彼の素晴らしさを、あれだけ本人に説いてきたというのに。
まだまだ足りなかったとでも言うのか。
「マリシス、本題に入りましょう。理由を言ってご覧なさい」
「父上、母上、ご相談するか迷いましたが……やはり未熟な私にはとても……とても一人では抱えきれません」
そう言うとすっと手元に視線を落として、マリシスは語り始めた。
流れる涙を、目を見開くようにして耐えて。
私たちが一度も目にしたことのない姿——。
それこそ、本当のマリシスのようにも思える姿で。
「どうやら僕は……いえ私は、二度目の人生を生きているようなんです。このままでは私は……私はっ……母上のお命を……お命を奪ってしまうっ!!」
彼の続けた言葉は私の心を大きく乱し、そして激しく揺さぶった。
恐怖と驚愕、まるでその二つの感情に心が支配されたかのように。
返す言葉?——そんなものすぐに見つかるわけがないでしょう?
ただひたすらに私は、言葉にできない声を、心の内で漏らすしかなかったのだ。
私に起こった『やり直し』と同様の線が、すぐそばにも走っていたなんて。
そんなこと、知る由もなかったから。
あぁ——神様、こんなことってあるのでしょうか。
この時まで私は考えたこともなかったんだ。
自分に起こる現象の全ては、他の誰かにだって起こり得る現象であること。
そんな簡単なことすら、ただの一度もね——。
「あぁ、皇后の言うとおりだ。それともあれか?まもなく立太子という今になって……まさかとは思うが、怖気付いたのか?」
アルが、整いすぎた顔をわざと歪めて。
言葉の抑揚には、戯けた色すら見て取れる。
「……いえ、そんなことではありません。どうやら私は……皇位を継いではいけない人間のようです」
その宝石のような緑の目、それをアルに真っ直ぐ向けて。
揺るがない決意を表明するかのように、しっかりとした口調でマリシスは応じた。——アルの父親としての努力も虚しく、その顔に笑みはない。
誰よりも自分を大切にして欲しい。
私たちは、そんな気持ちでこの子に向き合ってきた。
いずれは皇帝にと決めた子に、求めて良いことではないと知りつつも。
そしてその思いは今も変わらずで——。
強く育てたと確信を持てる今となっても尚、この子が苦しめば私たちも同じように苦しむのであった。
「まぁいいわ。久しぶりに夕食の後、三人でお茶でもいただきましょうよ。これは皇帝としての命ですわよね、陛下?」
マリシスからの申し出、弟を皇太子にして欲しいという言葉を受けて。
私たち夫婦は、なかなかの衝撃を味わった。
彼が幼い頃からつい最近まで、私たちはマリシスとのティータイムを欠かしたことがない。これは彼を養子に迎えた日、アルと私の間で決めた方針の一つだ。
乳母の手を存分にかりることのできる私にとって、その存在に勝てる唯一の方法だったから。
まぁとにかく簡単に言えば、育児の方針などと言うには烏滸がましい。
私たちなりの努力の形だったわけだ。
なのにそれでも、私たちは彼の異変に気付くことができなかったと言うのか?
◇
約束の時間ちょうどにやってきたマリシスは、いつになく暗い。
元気がないのとは違う。
何かを抱えてしまったような表情で、私たちの前に現れた。
「父上、母上、お待たせいたしました」
「よく来たな、そこに座れ」
マリシスが席につくと私は、懐かしい思い出を話し始めた。
本題を急ぐことに、無意識の不安があったのかもしれない。
いや、間違いなく私は——解決できない話を聞かされることを恐れていたのだ。
「ねぇ覚えてる?あなたがまだ5歳の頃だったかしら。オウルード夫人に言われて、厨房の菓子職人に弟子入りしたことがあったでしょう?たった一日だったけど。その時のクッキーを再現してもらったのよ」
どこの家でも母親が子供にしてやるように、茶菓子をマリシスの皿に取り分けて。一番好きなナッツの入ったのを、多めに盛り付けて見せた。
「これは懐かしいですね……母上。でも私が作ったものより、だいぶ美しいな」
マリシスは愛おしむような視線をクッキーに落とした後、同じように私のことを見て明るく表情を変えた。
「いいえ、あなたが作ったクッキーが一番なのよ。私たちにとっては、マリシス……あなたが作ったクッキーだから……美味しかったし特別だったのよ」
私は席を立って、向かいに座るマリシスの横に膝をついた。
手を握ってやれば、それはまだ華奢で——。
そして冷たくて、小刻みに震えてもいる。
毎日顔を合わせて、言葉を交わすこと。
それさえ怠らなければ、互いに理解し合うことができる。
何より、マリシスの心に少しずつでも『自信』を育てることができる。
少なくとも私は、そう思っていた。
だから、本当にショック。
私たちが彼に伝えたと思い込んでいたもの——『自信』『自己肯定感』はどこへ行ってしまったのかしら?
彼の素晴らしさを、あれだけ本人に説いてきたというのに。
まだまだ足りなかったとでも言うのか。
「マリシス、本題に入りましょう。理由を言ってご覧なさい」
「父上、母上、ご相談するか迷いましたが……やはり未熟な私にはとても……とても一人では抱えきれません」
そう言うとすっと手元に視線を落として、マリシスは語り始めた。
流れる涙を、目を見開くようにして耐えて。
私たちが一度も目にしたことのない姿——。
それこそ、本当のマリシスのようにも思える姿で。
「どうやら僕は……いえ私は、二度目の人生を生きているようなんです。このままでは私は……私はっ……母上のお命を……お命を奪ってしまうっ!!」
彼の続けた言葉は私の心を大きく乱し、そして激しく揺さぶった。
恐怖と驚愕、まるでその二つの感情に心が支配されたかのように。
返す言葉?——そんなものすぐに見つかるわけがないでしょう?
ただひたすらに私は、言葉にできない声を、心の内で漏らすしかなかったのだ。
私に起こった『やり直し』と同様の線が、すぐそばにも走っていたなんて。
そんなこと、知る由もなかったから。
あぁ——神様、こんなことってあるのでしょうか。
この時まで私は考えたこともなかったんだ。
自分に起こる現象の全ては、他の誰かにだって起こり得る現象であること。
そんな簡単なことすら、ただの一度もね——。