【番外編】SP 橘は、“甘やかし専門医”です
クルーズから戻って数日。
落ち着いた時間の中で、ふたりの目の前には、記入を終えた一枚の婚姻届が置かれていた。

そこには、ふたりの署名の下に――
「一ノ瀬岳」という、力強くもどこか拗ねたような筆跡。

保証人を頼んだ日のことは、忘れがたい。
政務の合間に訪ねた官邸の応接室で、紗良がお願いすると、一ノ瀬はすぐに了承したものの、「寂しい」を何度も口にした。

「娘が嫁に行くってのはな……置いてかれる気分なんだよ」
秘書官たちの前で堂々と嘆き、しまいにはちょっとだけ口をとがらせながら、ささっと書類にサインをしてくれた。

最後には、「……ま、2人とも幸せにな。お前らなら、大丈夫だろ」と照れくさそうに目を逸らしながら、背中を押してくれた。

一方、橘は保証人に特別なこだわりはないようで、警護課の先輩であり、今や良き理解者でもある旗野に、自然に頼んでいた。
「俺でいいのか?」と笑った旗野も、快く引き受け、緩んだ頬で「おめでとう」と祝福をくれた。

両家への挨拶もすでに終えていた。
橘の両親は、かねてより紗良のことを何となく聞いていたようで、「あの紗良さんね」と穏やかに受け入れ、「ついに結婚か」と、ふたりを温かく送り出してくれた。

婚姻届を手に取った紗良は、指先に残る紙の感触に、じんわりと胸が熱くなる。
航太からのプロポーズ――あの薔薇の香り、優しい指の温もり、船の上で交わしたキス。
すべてが、まだ夢のようで。

「……私、今もずっと、とろけそうに幸せだよ」

ふと零した言葉に、隣で橘が小さく笑った。
その笑みもまた、彼女の心を優しく包み込む。
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