【番外編】SP 橘は、“甘やかし専門医”です
社内の空気は、いつもより少しだけせわしない。新たなシステムの稼働に加え、数週間前に発生したサイバー攻撃の対応の余韻で、各部署は未だ落ち着かない様子だった。

その中で、一ノ瀬紗良は書類とモニターに挟まれながら、昼休みすら満足に取らず、ここ最近はコンビニのおにぎりひとつ、サンドイッチひとつで空腹をごまかしてきた。

——けれど、今日は違う。

紗良は静かに社食の椅子に腰を下ろし、目の前には栄養バランスの整った日替わり定食。魚の塩焼きにひじき、具沢山の味噌汁。いつもなら選ばない“いかにも健康志向”なそのメニューを、しみじみと噛み締める。

そこへ、トレーを手にやってきたのは、秘書の坂口と部下の岡島だった。

「わっ、紗良さんが社食にいるの久しぶりに見ましたよ」

「珍しい〜。いつもPCの前で片手ランチしてません?」

2人はからかうように笑いながら、紗良の正面と横にトレーを置く。

紗良は箸を止めて顔を上げ、「お疲れさま。2人とも、サイバー対応ありがとね。助かったよ」と労う。

すると、勘の鋭い坂口がすかさず尋ねる。

「もしかして……紗良さん。橘さんに“ちゃんと食べろ”って叱られたんじゃ?」

ぐっと図星を突かれた紗良は、箸を握ったまま目を泳がせ、口元を引きつらせる。

「ま、まあ……そんな感じ?」

ニヤリと笑う坂口の隣で、岡島もくすくすと笑いながら言った。

「ですよね。橘さんなら、すぐ気づきそう。紗良さんのこと、よく見てるし。」

紗良が橘と交際していることは、社内でもこの2人だけが知っている。

きっかけは、社内警護に入っていた橘が、帰る紗良をさりげなく見送った日のこと。
坂口と岡島は互いに目配せし、「……あれ、絶対付き合ってるでしょ」と口を揃えた。
それ以来、紗良が何も隠さないうちに、2人にはすべてが伝わっていた。

紗良は照れくさそうに笑いながら、ご飯をひとくち。

なんでもない会話、だけどあたたかい居場所。
そんな時間を、ようやく彼女は日常の中に持てるようになっていた。
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