心地いい風
次の日の夜。
 お風呂を出た私は、タオルでざっくり髪を巻きながら、リビングに入っていった。

 ドライヤーは自分で持ってきた。
 それを見た千歳くんは、ソファに座ってテレビを見ていた体勢のまま、ちらりと私を見て、ゆるく笑った。

「ん? 今日はどうしたの?」

「……お願いしに来ました」

「ん?」

「髪、乾かしてくれませんか、千歳さん?」

 いつもよりちょっとだけ声を高くして言うと、千歳くんの口元がにやっとゆがんだ。

「なんだそれ。急に丁寧じゃん」

「ほら、やっぱり私からも“お願い”って言った方が、うれしいかなって思って」

「うん、うれしい」

 即答されて、ちょっと照れくさくなった。

「でも、あんまり甘やかすとさ」

「ん?」

「クセになる」

「……それ、私のセリフ」

 そんなやりとりを交わしながら、私はおとなしく彼の前に座る。
 タオルをとって、彼にドライヤーを渡すと、彼は自然な手つきでスイッチを入れた。

「じゃ、今日も俺の“おしごと”しますね」

「いつから正式な仕事になったの?」

「昨日の夜」

「そんなに早く昇格するんだ……」

 ふたりで笑う。風の音が、部屋にやわらかく流れていく。

 ドライヤーの音にかき消されそうになりながらも、彼の声が届く。

「……お客さま、本日のお仕上げはどうされますか?」

「えっと……“好き”って囁いて仕上げてください」

「それ……こっちのHPがゼロになるやつ」

「ちゃんと回復してからお願いね」

「じゃあ……はい、今日も好きだよ。かわいくて、がんばり屋で、ちょっとズボラで、俺を甘やかしてくれる葉月さん」

 言いながら、彼の声が少し震えていた。
 たぶん恥ずかしいんだろうけど、でもそういうところがまた、たまらなく愛しい。

 私はソファのクッションにそっと背中を預けながら、小さくつぶやく。

「……惚れ直した」

「何回目?」

「毎日だよ」

「……それ、ズルいな」

 千歳くんの指先が、まるで恋人じゃなくて、花を扱うみたいにやさしく私の髪をなでていく。

 こんなにも愛されてるって、言葉じゃなくてもわかる。

「千歳くん、ねえ……」

「ん?」

「こういう時間、これからもずっとあるかな」

「あるよ」

「結婚しても?」

「うん。結婚して、歳とっても」

 ぽつりと答えた千歳くんの言葉が、あまりに自然で、未来にふわりと希望を灯した。

「……子どもができたら、髪乾かすのはパパの担当って言おうね」

「え、それ俺の担当続投なの?」

「うん。“いつものやつ”で、お願いしますって言ってもらって」

「そしたら、『毎度ありがとうございます』って言うわ」

 想像だけで頬がゆるんでしまう。

 まだ見ぬ未来に、あたたかな風が吹いた。
 私は静かに目を閉じる。彼の手が髪をすくい、丁寧に、優しく風を送り続ける――それだけで、心が満たされていく。
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