邪に、燻らせる

酷寒の候/深む冬は別れ

『寂しい』を埋めてたものを失くしたら。
私はどうすればいいんだ?
丸々1年間も一緒に過ごしたってことは、冬爾を思い出さなくてもいい季節がないということだ。
記憶の糸を手繰り寄せて、どの瞬間から冬爾にこんな感情を抱くようになってたんだろうと考えたけど、まるでわからなかった。
だって大して身持ちも固くない私を引っ掛けるフックは無数にあって。
そして私は常に冬爾に救われていたのだから。
「寧ちゃんはどんな人がタイプなの?」
私と同じ癖っ毛の髪をふわふわと弾ませている母が、少女のように無邪気な笑顔で尋ねてくるその質問は何度目だろうか。
「私はガリレオの福山が最強と思うよ」
「それは面食いすぎるわよお」
「一世代前の武骨な感じの男の人の顔が好きなのよね、竹ノ内とか反町の若い頃とかほんとご馳走様です」
「確かに最近は可愛い顔の子が多いものねえ」
「男!って感じの見た目が良いな」
正月は実家に帰省していた。
私が帰るたびに次から次へとお見合い写真を見せられるのも、最近は一種のアトラクションだと思うことにしている。
「あ、ならこの人はどう?」
「割りと好きかも、何してる人?」
「お父さんの取引先の重役の方の息子さんで、今は広告代理店にお勤めみたいよ」
「すごーい東大卒?頭も良いのね」
「会ってみる?」
にっこり微笑まれて、目を逸らした。
ホストクラブのパネルを選ぶ感覚でお見合い写真を見ることには慣れたけど、いざ会うとなると二の足を踏んでしまう。
「…春ぐらいに仕事が落ち着いたらね」
「寧ちゃん、もうあなた今年で三十歳になるのよ?お仕事ももちろん大事だけど出会いだって大切にしなくちゃ!」
「お母さんはやっぱり私に結婚してほしい?」
「だって寧ちゃん寂しがり屋だもの」
私よりもさらに生粋のお嬢様育ちで今までの人生で一度も働いたことのない母は、ふわふわと天然で無邪気で。
たまに突然ものすごく鋭いことを言う。
「寧ちゃんはひとりじゃ生きてけないわよ」
母の言う通り、私は寂しがり屋だ。
冬爾と最初に寝た夜だって、夏深と別れてから人肌に触れることがないのが寂しくて、それに酔いが拍車をかけて。
覚えてないけど、多分そうだったと思う。
だって私はそういう女だもの。
これ以上実家に居座ると母が見合い相手を家にまで連れ来そうな勢いだったので、三が日が過ぎる前に退散することにした。
帰り際に高級なおせちを両手いっぱいに持たせてくれたので、当分引きこもっても生きていけそうだ。
「そんな大荷物で何してんの?」
向かいから歩いて来たのは冬爾だった。
ダウンジャケットにジーンズという学生みたいにカジュアルな格好で、普段通りの眼鏡が若干浮いている。
「実家に帰ってて、冬爾はどこか行くの?」
「大学時代の友達と新年会」
「向こう行ったらなかなか会えなくなっちゃうもんね、楽しんできてね」
「ありがと、それ家まで持ってやろうか?」
「見た目ほど重くないから平気」
気にせず行って、とすれ違う冬爾に告げて、マンションまでの一本道をひとりで進もうとすると。
「うわ、予想以上に重いなこれ」
「え…」
「早めに出たから手伝ってやるよ」
私の持っていた荷物を取り上げた冬爾が「これおせち?」と無邪気に尋ねてくる。
私は微妙な相槌を打って誤魔化しながら、不意に触れ合った指先にどきどきして、どこの少女漫画だと心の中で失笑した。
散々、することしておいて馬鹿じゃないの。
本当に格好つかない…。
「…ごめんね、ありがとう」
「これぐらいはお安い御用、帰省してたの?」
「そうなの、ちょうど今帰ってきて」
「俺も大晦日と元旦だけ帰ってたわ、でも弟夫婦がいるとなんか居場所なくて」
「兄弟がいるとそういうのあるんだね」
「行き遅れの兄だからな」
「私も行き遅れの娘だから気持ちわかるよ」
冬爾はのんびりと私の隣を歩いた。
新年の静かな住宅街にふたつの足音が響く。
結局部屋まで荷物を運んでくれた冬爾は、帰り際に「やべ」と腕時計を見ながら呟いて、早足に駅へ向かった。
私はひとりになった部屋で、堪らない気持ちになった。
勘弁してほしい、と思った。
これくらいの親切で、ここまで心が揺れるの?
「新刊出版、おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
今日は『嵐が丘』の新刊の発行日だった。
偶然『炎の精霊シリーズ』の打ち合わせの予定があって出版社に来ていた私に、大垣がお祝いにとランチに誘ってくれた。
「俺は好きですよ、常盤さんらしいシンプルで率直な日本語の表現が綺麗で」
「昨日からもう胃がキリキリしてて…」
「自信持ってくださいよ」
オフィス街の一角にある洋食屋さんは、お昼時なこともあってとても混み合っていた。
窓際の席に通された私たちは各々メニューを見て注文を終え、互いが喫煙者なこともあり店員に灰皿を頼む。
「あ、炎の精霊シリーズなんですけどね、アメリカで制作されたドラマの版権を日本の配給会社が買ったらしくて」
「え!なら日本でも配信されるんですか?」
「確実に伸びますよお、売上部数」
大垣は嬉しそうにニヤニヤしてる。
「常盤さんの名前もまた売れますね」
「…嬉しいんですけどドラマファンのご期待に添えるか心配です」
「またそんな自信なさげなことばっか言って」
「ごめんなさい、頼りない翻訳家で」
「俺は好きですけどね」
大垣の目がどこか意味ありげに私を見た。
可愛らしい顔立ちに似合わないタールの重い紙煙草を取り出した大垣は、ふわっと軽く煙を吐き出した。
「打ち上げでもしませんか、次は夜に」
「…打ち上げですか?」
「常盤さんの好きなものなんでも奢るので食いたいもの考えておいてください」
「え、あ、はい」
…思わずイエスと答えてしまった。
だって今まで大垣からそんな空気を感じたことはなかったのに、急に来られるとモテない女の免疫のなさが発動してしまう。
「最初は気軽な感じで考えてもらえたら」
「…気軽な感じで、はい」
「嫌になったらメールで断ってくれていいですからね、どうぞ」
大垣は笑って灰皿を差し出してきた。
ここまで逃げてもいいですよと言われると逆に逃げづらくて、この人の策略はどこまで深いのだろうなんて思った。
「寧子、ちょっと助けてくんない?」
冬爾に呼ばれて部屋を訪れた。
いつも整然と片付いている冬爾の部屋が、今は泥棒に入られた後のように雑然と散らかっている。
「明日引っ越しなのに全然終わんねえ」
「嘘でしょ、明日?!」
「仕事の片手間に適当に引っ越し屋に見積もり頼んだら1週間ミスって予約してたらしい」
「…何してるのよ」
「おかげで昨日からほぼ寝てねえよ」
最悪、と呟きながら冬爾が段ボールに荷物を詰め込んでゆく。
「もう明日福岡に行っちゃうの?」
「まあなあ、でも引っ越しの時期ミスったからこっちの仕事が中途半端に残ってて、遠隔で無理そうなら一瞬戻ってくるかも」
「…そっかあ、遂に行っちゃうのね」
冬爾の発つ日は聞いていなかった。
詳細な日取りを聞いてしまうと、その日までの日々を毎日指折り数えて、そのたびに沈む自分が目に見えていたからだ。
実家からの帰りに偶然と会って以降、冬爾の方がずっとバタバタしていて、私たちは一度も顔を合わせていなかった。
私も年明けからはまた色んな作品の翻訳を担当させてもらえるという話が舞い込んでおり、幸い仕事は順調だった。
作業に集中している間は他のくだらない雑念から解放されるから、今は仕事に救われている。
「今日の夜さ、寧子の部屋泊めてもらえる?」
「この有様じゃ寝れないもんね」
「終わんのかなこれ」
段ボールに詰めても詰めても減らない荷物に冬爾は呆然としている。
「向こうの部屋は決めたの?」
「先週末に向こう行って決めてきた、内見する時間もあんまなかったしかなり適当に決めたけど、まあどうせ寝に帰るだけだし」
「今より忙しくなりそうなの?」
「多分な、一応責任者って肩書きつくから他の税理士の起こしたトラブル処理も俺の仕事になるし」
「…なんか凄い大変そう、身体壊さないでね」
「ありがとう」
冬爾はにっこりと微笑んだ。
やけに優しげなその表情に、心臓の内側を指でぎゅっと抓られたような痛みが走った。
終わらないと文句を言っている冬爾を宥めながら、粗方の荷物をまとめ終える頃には、もう日が沈みかけていた。
「あー…まっじで業者に頼めばよかった」
「どうして頼まなかったの?」
「見積もり内容も適当に電話で決めたからどこまでしてくれるか聞いてなかった」
「ほんと忙しかったんだね、お疲れ様」
「寧子がいてくれて助かった」
冬爾は疲れたと言って、剥き出しの冷たいフローリングに大の字で倒れ込んだ。
「そんなとこ寝ないで、風邪引くよ」
「なんか腹減った、食うもん残ってたかな?」
「どうせ冬爾の部屋カロリーメイトとか10秒チャージとかしかないでしょ、私がなんか軽く作ってあげるから」
「なんか悪いねえ、荷造り手伝ってもらった上に飯まで用意してもらっちゃって」
「餞別よ、これで最後だから」
私の部屋のある階まで一緒にエレベーターで降りて、冬爾にチャーハンを作ってあげる。
私が料理をしている間、ベッドに寝転がった冬爾はうつらうつらと眠たげに瞼を開いたり閉じたりしていた。
「明日何時に引っ越し業者来るの?」
「10時」
なら今日はゆっくり寝れるのか、と思った。
冬爾が景気よくチャーハンを口に運ぶのを横目に見ながら、何気なくテレビを点けた。
私たちは恋人でもなければ友人でもない。
だからこんな時、どんな風に見送ってあげるのが正しいのかがよくわからなかった。
人よりもたくさんの日本語を知っているはずなのに、今この時、冬爾にどんな言葉を贈れば正解なのか見当もつかなかった。
元気でね、が妥当だろうか?
頑張って、の方が良いのだろうか?
それとも何も言わずに別れるのが、大人のお作法なのだろうか?
「今日は早めにお風呂入って寝なよ」
「んー…ありがと」
冬爾は大人しくお風呂場に消えてゆく。
ひとりになった部屋で、私はベッドの上に膝を抱えて丸まりながら、ぎゅっと目を閉じた。
暗闇の奥底で不完全燃焼に燻る炎が、一酸化炭素だけを充満させて、少しずつ生命を殺してゆくみたいに。
始まりかけた何かが死にゆくのを感じた。
夏深と別れた時は、散々衝突して傷ついた代わりに、全部吐き出してから別れられた。
だけど今は、それも出来ない。
冬爾にぶつけられるほどの確固たる何かなんて、まだ持っていないもの。
こんな蛹が羽化する直前みたいな、淡く輪郭が滲んでぼんやりした感情をぶつけても、冬爾を困らせるだけだ。
新たな場所で、きっと彼らしく正々堂々と戦いを挑みに行く冬爾に。
そんな無駄な荷物、背負わせられない。
もう若い頃のように、素直であることや白黒はっきりさせることが美徳であるという時代は、遠の昔に過ぎたのだから。
「ねえ、次の部屋はどんな間取り?」
「リュックの中に間取り図とか鍵とか入った封筒あるから見ていいよ」
私はベッドの傍に置かれたリュックを探った。
「すごい、新築の1LDK!」
「東京より全然物価安いんだよ、その間取りでもここより家賃安いよ」
「なんか都心に住むのが馬鹿らしくなるね」
「寧子の仕事ならどこでもいいもんな」
「私も郊外に移住しようかな」
郊外に住むことも、今までまるで考えたことがないわけではなかった。
基本が在宅での仕事になる翻訳家は、通勤というものに左右されないので、わざわざ都心部に住む必要もない。
実際、郊外で仕事をしている人も多い。
ただ私の場合は、未だに過保護な両親が、なるべく実家の近くに住んで欲しそうな雰囲気を出してくるので、昔の親不孝もあって今は都心に住んでいるという背景がある。
「寧子ってなんだかんだ親好きだよな」
「翻訳家になる時も別に仲悪くて喧嘩したわけじゃないからね」
「愛ゆえに反対されたタイプか」
「不安定な仕事だし親にしたら心配だよね」
「認めてもらえてよかったな」
ベッドの上に片肘をついた体勢の冬爾が、私の頭をよしよしと撫でてくれる。
「冬爾は福岡行くの心配されなかった?」
「三十の息子が国内に転勤するぐらいでって思うけど、お袋はちょっと寂しそうだった」
「いくつになっても息子は息子なんだろうね」
「もう半分おっさんなのにな」
冬爾の咥えた煙草の先から紫煙が立ち上る。
相変わらず本数の多い男だ。
「向こうでもちゃんとご飯食べるんだよ」
「寧子の飯食えなくなるのはまじで結構痛手だわ」
「食に興味ない冬爾にそう言ってもらえたら作り甲斐もあったってもんだよね」
「毎日わざわざ作って偉いよなあ、俺なんか惣菜屋に寄るのすらダルくて栄養補助食品に頼る生活身に付いてたのに」
「あれ栄養の補助するだけだからね、主食にするの間違ってるからね」
「はいママ、気を付けます」
くすくす笑って煙草臭い唇を押し付けてくる。
誰がママだ、と頬を軽くつねった。
相変わらず自分じゃ全然食事をちゃんと摂る気概のない冬爾が、向こうに行って体を壊さないかが心配だった。
「…本当に、気をつけてね、冬爾」
「心配性だなあ、海外でもなくたかが福岡行くだけなのに」
「そうだよね」
枕元のランプがぽつねんと灯っていた。
お風呂上がりの温かい身体を毛布の中で寄せ合って、他愛もない話をする。
こんな風に冬爾と過ごすのは久しぶりだった。
穏やかなこの時間が好きだった。
―――…寂しい。
この時間を失って、この体温を失って、私はこれからまたひとりになるのだ。
結局どんな関係も、必ず別れは訪れる。
もう失いたくなんかないのに。
出会いの数だけ別れがある、なんて陳腐な台詞は、どこまでも普遍的な真理だった。
「冬爾…」
目の前の大きな身体に抱きついた。
だけどその先に続けられる言葉を持たなかった私は、ただ冬爾の身体にしがみついたまま、涙を堪えた。
『元気でね』も、『頑張って』も、言えない。
だって本当に言いたいのは『行かないで』だ。
「…寧子」
私を抱きしめた冬爾が、耳元でどこか苦しげに息を吐いた。
重なった唇からは、苦い煙草の味。
必死でブレーキを踏み続けたのに。
制御装置のメンテナンスも、入念にしたのに。
どうして思い通りにならないんだろう。
馬鹿じゃないの。
こんなどうしようもないタイミングで気づくなんて、本当に救いようもない。
もう心のどこにも隠し場所なんかないのに。
こんなに、好きだったのに。
――――…その夜の冬爾は、今までで1番優しいセックスをした。
だから私は、余計に何も言えなかった。
「―――――…あー」
朝、目が覚めると、隣は空っぽだった。
寝癖のついた髪を掻き上げて、枕元の煙草を取り上げた私はそれに火を点けた。
ふわり、と紫煙が舞う。
外が騒がしい気がしてベランダに出ると、下では引っ越し業者が忙しなく見覚えのある荷物を運び出しているのが見えた。
よく晴れた冬の澄んだ青空には不似合いな煙草の煙が、硬く冷たい空気にゆらゆらと揺られて溶けてゆく。
私はその様を、ぼんやりと眺めながら。
静かに煙草を燻らせていた。
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