邪に、燻らせる

暮夏の候/彼は誰の朝涼み

季節が半周してしまった。
今さらそんなことに気づいて、驚いている。
冬爾の部屋で最初に目覚めた朝、自分のしでかした失態に失望しながらも、それなりに冷静ではあった。
お酒の上での失敗は、相当久しぶりではあったものの、初めてではなかったからだ。
こんな三十手前にもなってという自分に対する情けなさはあったけど、大人だからこそ後悔先に立たずという言葉を知っていた。
なので私は冬爾に対して昨夜の失礼を丁重に詫びて、お互い大人なので忘れましょうという何万回も使い古されてきたであろう台詞を吐き、自分の部屋に戻った。
そして二日酔いに痛む頭を抱えながら、自分の部屋で煙草の先に火を点けて、不健康な煙を肺に入れた時、ふと思った。
『あれ、ゴムってしたんだっけ?』
暦の上ではお盆に差し掛かり、冬爾との関係が始まったイブの夜からは、もう半年が経とうとしていた。
働き方改革の煽りを受けてお盆休みが9連休になったと、何故か不満そうにしていた冬爾の部屋で昨日は飲んで。
そのまま抱き合って眠ったのは深夜だったはずなのに、空が白み始めたばかりの明け方に目が覚めてしまった。
『ところで、昨日ってゴムはしましたか?』
さすがに手ぶらでそんな質問をしに行くのは不躾かと思った私は、お詫びの品に適当なワインを持って、その日の夕方に冬爾の部屋を再度訪ねた。
ドアを開けて一瞬怪訝そうに眼鏡の奥の瞳を眇めた彼は『…しましたけど?』とぶっきら棒に答えた。
『なら良かったです、すみませんでした』
『いえ、わざわざお詫びまでどうも』
『では失礼します』
ワインを手渡して聞きたいことを聞けて満足した私は、彼に頭を下げて踵を返した。
『良かったら一緒に飲みません?』
背中から追いかけてきた声に振り返った先に見えたのは、冷静でお堅そうな男の顔。
ほとんど記憶にない昨日の情事。
その最中に、あの涼しげな表情が嗜虐に歪んでいたのを思い出して、刹那的でみっともない欲が湧いた。
『是非』
そう答えたのが、始まり。
時の流れは早いもので、あれから半年。
まだ隣で寝息を立てている冬爾を起こさないように身体を持ち上げて、サイドテーブルの上に置いていた煙草を咥えた。
ふわりと白い煙が冷房の効いた部屋に舞う。
携帯で時刻を確認すると、まだ5時だった。
眼が冴えてしまって眠れそうになかった私は煙草を燻らせつつ、携帯で適当な芸能ニュースなんかを見て時間を潰した。
冬爾は明日からまた帰省するとうんざりしたように言っていたけど、今日はどうするんだろうか。
「…寧子?」
下から眠気を湛えた声が聞こえた。
冬爾は奥二重の目を細めながら、甘えるように私の腰に腕を巻き付ける。
「起きんの早くね?何時?」
「なんか目が覚めちゃったの、まだ5時」
「そら眠いわ」
「ごめんね、寝てていいよ」
空いた方の左手で冬爾の頭を撫でた。
けれど冬爾は何故かそのまま起きてきて、自分も煙草を手に取った。
「初めて冬爾と寝た日のこと思い出してた」
「去年のイブ?」
「あれからもう半年かと思って」
早いもんだな、と冬爾がしみじみと呟いた。
「あの日、なんで私のこと誘ったの?」
「はあ?言っとくけど最初に誘ってきたの寧子の方だからな」
「そうじゃなくて、私がお詫びに夕方もう一回会いに来た時、一緒に飲もうって冬爾の方から誘ってきたでしょう?」
「あー…、なんでって言われると困るけど普通にヤリたかったんじゃない?あとあんま後腐れなさそうに見えた」
「女誘う判断基準が割り切りすぎてて嫌」
「そんな文句言われても知るか」
煙草を吸う冬爾の肩に頭を預けた。
こんなの煙草じゃねえと冬爾が言ったメンソールの匂いが鼻に抜けて、夏なのに涼しくて、朝なのに薄暗くて。
「私が冬爾のこと好きになったらどうする?」
煙草を咥えた眼鏡のない横顔は、私に呆れているように見えた。
「好きになってから言え、そんなもん」
「…さすがに狡かったか」
「その気もないくせに俺の方だけ煽ろうとすんなよ、タチ悪いぜ」
「…ごめんなさい」
もう短くなった煙草を、灰皿にこすりつけて揉み消した。
好きになってから、か。
それじゃ遅いから、先に聞いたんだけどな。
「どうして彼女作らないの?」
「女って、自分が仕事優先でも良いって言ったくせに、聞き分けて我慢してる私が偉いから褒めてって言う生き物じゃん?」
「…残酷なほど的を得てるね」
「それ、別に偉くねえだろ、ただの契約履行」
企業取引かよ、と思った。
恋愛にそんな仕事の理屈引っ提げてこないでよとも思ったけど、冬爾の言葉は正しいし、それがこの人の価値観なんだ。
「最初に自分で自分の価値下げたのに、大事にされてないって、そりゃそうだろ」
「別れる時泣かれたでしょう?」
「毎回俺が悪いのかよって考えるのも飽きた」
だから今は恋愛は必要ないのだと言った冬爾が灰皿に煙草を捨てて、私の手を引いた。
「寧子こそ、なんで彼氏作んねえの?」
「恋愛って、それを手に入れれば自分の全部が満たされるわけでもないのに、自分の全部で消耗するじゃない?」
「んー、まあ?」
「別に恋愛がなくても生きていけるのに、恋愛をしてる間は、それがなくちゃ生きていけないような気がするの、不公平よね」
「だからもう要らない?」
「…どうかな、でも傷つくのは嫌なの」
どうしてこんな話、冬爾にしてるんだろう。
所詮恋愛なんか契約履行だと思っているような男に、理解されるわけもないのに。
冬爾のTシャツを私が奪って昨日の夜から着ているせいで、裸の上半身が覆い被さってくる。
お互いに煙草臭い口でキスをしながら、少し違う味を舌先で交換して、それを絡めた唾液で薄めてゆく。
服の中に冬爾の手が忍び込んできた。
胸の先を器用に転がされて、耳を愛撫される。
自分の中心にある泉が、緩やかに決壊していくのを感じた。
「俺との関係は、寧子を傷つけたりすんの?」
「そこまで純情じゃないよ」
「なら良かった」
冬爾に傷つけられたことは、1度もなかった。
こんな風に何度も身体を重ねれば、もちろん情は移るけど、恋にはしないと決めてる。
感情のブレーキの制御方法は、一度ぶっ壊して組み立て直した時に、その構造を理解したから知っている。
それに、始めた瞬間からわかっていた。
冬爾が私を好きにならないってことは。
期待しなければ失望することもなく、それに伴う傷もつかない。
でも冬爾は、私の寂しさを紛らわせてくれた。
それだけで充分だ。
これ以上を求めるなら、傷つく覚悟がいる。
そんな覚悟、持つ気もないのに。
「今日は何するの?」
「特に予定もねえしジムでも行こうかと」
「なら一緒に朝ごはん食べない?ホットケーキ焼こうと思ってたの、今日」
「また急に何を思い立ったんだよ」
「昨日苺ジャムを作ってね」
カーテンの隙間から小さく切り取られて見える朝の風景が少しずつ変わり始めている。
朝から抱き合って汗をかいた私たちは、どちらが先にシャワーを浴びるかで競って、結局一緒に入ることにした。
「苺ジャムとかまで手作りしてんの」
「多分料理が趣味なの、今度一緒にする?」
「遠慮しとくわ」
相変わらず冬爾は食に興味を持たない。
食べるという作業自体は苦にならないようだけど、それに至る過程に手間を取られるのを極端に嫌がった。
朝から贅沢にお湯を溜めて浸かりながら、冬爾は後ろから抱きしめるようにして、私の肩に顎を乗せていた。
ぽちゃん、と湯気の中に水音が響く。
「半年もだらだら続くと思わなかったよね」
「俺らのこと?」
「2~3回したら満足してフェードアウトするかなあって思ってたけど、案外長続きしてる」
「寧子が俺とすんの好きだからじゃない?」
「冬爾は嫌い?」
「嫌いだったらこんな何度もしない」
冬爾は素直じゃない男だった。
だけど素直すぎる男は、どこに誰といても素直すぎることを知っていたので、私は冬爾の素直じゃないところが好きだった。
振り向いて冬爾の耳に噛みついた。
冬爾はくすくすと笑って、私の頬を掴みながら甘いキスをくれる。
「ひねくれてて可愛い、冬爾」
「だろ?俺って実は可愛い系なの」
「三十路の男が何言ってのよ、そんなんだから振られるんじゃない?」
「でも振られたから寧子としてる」
「なら元カノたちに感謝ね」
くるりと振り返って、冬爾の首に腕を回す。
「ねえ、前の彼女はどんな人だった?」
「前の彼女なあ、正直別れ際に死ぬほど泣かれた記憶しか残ってねえな」
「なら、今までで1番好きだった彼女は?」
「全員好きだったから比べられない」
「十代みたいなこと言うのね」
水の滴った冬爾の髪に指を通すと、涼しげな男前が覗く。
眼鏡のない目元が、私を緩く睨んだ。
「お前こそどうなんだよ?」
「私は直近に付き合ってた彼かな、人生で1番好きだったと思う、多分この先もずっと」
「なんで別れたの?」
「両親との折り合いが悪くてね」
でも、それはきっかけに過ぎなかった。
結局私と彼は、お互いの欠陥や価値観、環境の違いなんていうものには目を瞑って、ありのままの感情だけを優先させていた。
それは別に悪いことじゃないけど。
ただそういう恋は、得てして長くは続かず、未来がないというだけだ。
「それで冬爾は?」
「就職してから3年続いた彼女がいた、多分それが今のところ1番」
「当ててあげようか、破局理由」
「ありきたりに結婚渋ったからだよどうせ」
悪かったな、と珍しく拗ねている。
僅かに無精髭が伸びてきている冬爾の頬に指を滑らせながら、互いの鼻先をくっつけた。
「結婚しちゃえば良かったのに」
「あの時まだ26とかだぜ?他人の人生背負う器量なんか今でもねえのに、むりむり」
「独身主義者?」
「さあな、まだなんも決めてねえよ」
「なら我が家に婿に来る?」
冬爾ならきっと、両親も手放しで大歓迎してくれるだろう。
そして冬爾も、私の父親の人脈を得られる。
この男好みの好条件な契約だとプレゼンする私に、確かになと冬爾は変に納得していたから、馬鹿な男だと思った。
「その損得勘定、ほんと可愛くない」
「可愛いって言ったり可愛くないって言ったり主張がすぐ変わるの、女の悪い癖だぜ」
「抒情的だからこそ美しいの」
「理路整然としてっから美しいんだろ」
真っ向から衝突する意見は、両方正しくて、両方間違っていた。
だから逆上せる前に、湯船から上がるべきだ。
そして湯の中での会話は、湯から上がったら綺麗に洗い流して、忘れたことにするべきものだと思った。
「本当にジャム作ったんだな」
冬爾は昨夜瓶に詰め込んだ苺ジャムを、しげしげと見つめていた。
その傍らで、ホットケーキをひっくり返す。
「昨日スーパーで苺が安売りしてて」
「スーパーの安売りには敏感なくせに滅多に着ないドレスはVALENTINOで買うの、本当に寧子の金銭感覚のバグだよな」
「今月から冬爾に言われた通り貯金してるから許してよもう!」
「あ、俺あんまり甘くないようにして」
昨日の夜ずっと閉め切ったままだった部屋の換気をするために開けたベランダの窓から、まだ涼しい朝の風が流れ込んでくる。
ご所望通りに冬爾の方のホットケーキには、生クリームは控えてバターをひと片だけ乗せた。
「朝飯とか食うの久しぶりだわ」
「たまには早起きしてみるのも良いね」
「でもこんなの食った後にジムで体動かす気になんねえなあ」
「なら私と一緒に読書でもする?」
両手を合わせて、甘いそれを頬張った。
甘酸っぱくてふわふわしたホットケーキが口の中に幸せを連れてくる。
冬爾はそんなにおいしくもなさそうな顔で、でも毎回律義に「うまい」と言う。
気の使いどころがよくわからない男だった。
「そうだな、読書にしよっかな」
「え、本当に?」
「読みたいと思って溜め込んでる本が何冊もあるんだよな、どうにも最近仕事終わったあとだと活字読むのが辛くて」
「それ、加齢による眼精疲労じゃない?」
「わざわざ加齢のせいにすんな」
夏の朝の、朝露を孕んだような涼しい風。
ホットケーキの甘い匂い。
こんな他愛もない平凡な日々が、1日でも長く続けばいいのに、なんて。
陳腐な願いは、笑い声の中に溶かした。
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