邪に、燻らせる

涼風の候/十六夜に贈る

新しい仕事を始めるにも。
ちょっと勇気が必要な歳になってしまった。
季節は九月の半ばに差し掛かり、それでもまだ例年通りに残暑が厳しい時節。
初めて会う映像配給会社の担当者は、その業界らしく年齢の予想しにくい見た目で、にこりと髭面の相好を崩した。
「初めまして、後藤と申します」
「常盤です、よろしくお願いします」
互いに交換した名刺の名前には『後藤春一』という名前が横書きのシャープな字体で綴られている。
打ち合わせ場所にと指定された青山のカフェで対面に座った後藤は、派手なボルドー色の鞄から資料を取り出した。
誤解を恐れずに言えば胡散臭い見た目の後藤だが、名刺に載っている企業名は、私も知っている大手企業だった。
「弊社で取り扱っている海外の映像作品の翻訳を是非常盤さんにお願いしたいと思いまして」
「どうしてまた私に?私はこれまで文芸作品の翻訳一筋で、映像翻訳を手掛けたことはないんですが…」
「存じ上げてます、ただ僕が常盤さんの翻訳が好きでしてね、『炎の精霊シリーズ』全巻読ませていただいてます」
「え、本当ですか?ありがとうございます!」
彼の言う『炎の精霊シリーズ』は、私が第一作目から翻訳を担当させてもらっているアメリカ人作家の長編小説で、昨年から母国アメリカでドラマ化もされた人気作品だ。
原作自体は現在第七巻まで発行されているが、日本で出版されているのはまだ第三巻までで、実は先日第四巻の校了を終えたばかりだった。
「まあ正直最初は原作が好きで貴方の訳を手に取ったんですが、貴方の文章で読むととても日本語が美しくて」
「ありがとうございます、そう言っていただけると翻訳家としてはすごく嬉しいです」
「自分自身こういう仕事をしているのもありましてね、何か機会があればご一緒できないかと以前から考えていて、それで今日はこうしてご連絡させていただいたんです」
「そうだったんですね、資料拝見いたします」
ざっと貰った資料に目を通しながら、納期や翻訳内容、原稿料の確認をした上で、数日中に検討して答えを出すことになった。
後藤と別れたその脚で、私は半蔵門線の地下鉄に乗り、大手町で降りた。
どうせ家から出るなら一気に終わらせてしまおうと、冬に出版予定の海外ノベルの打ち合わせを午後に入れていたのだ。
「なんか直接会うのはお久しぶりですね」
「本当に、最近自宅からリモートで打ち合わせが出来るので全然家から出なくって」
「便利ですけどちょっと寂しいですよねえ」
「在宅ワークでひとり暮らしだと話し相手もいないから結構孤独ですよ」
「あー、確かにそれありますよね!」
海外文学部門の担当編集である大垣翔平は、少年のように無邪気な笑顔で頷いている。
確か私よりも二つ程年下だと言っていた大垣だが、彼の童顔な顔つきとやや高めの声のせいでもっと年下に見えた。
「なるほど、映像翻訳ですか」
「今まで手掛けたことのない分野なので迷っている部分はあるんですが、他の翻訳家さん達で二足の草鞋を履かれてる方はたくさんいますよね?お話聞いたりしますか?」
「そうですねえ、他の仕事の話はあまり皆さん教えてくれないからなあ、今度それとなく聞いておきましょうか?」
「すみません、無理な相談してしまって」
冬に出す新刊の打ち合わせと、進行中の作品の進捗の確認を終えた後、束の間の雑談の際にそんな会話になった。
大垣も私もお喋り好きなタイプのふたりだったので、打ち合わせと称してだらだらと関係のないことを話し込んで帰ることはこれまでも往々にしてあった。
「でも個人的には是非見てみたいです、常盤寧子の手掛けた映像翻訳」
「…大垣さんは乗せ上手ですね」
「これでも編集者なので」
ふふ、と可愛らしい顔が笑う。
これ以上は後藤ではなく大垣にイエスを言わされてしまうような気がした私は、そそくさと出版社を後にした。
都内でも屈指のオフィス街である大手町のビル群を見上げながら、さすがに壮観だなあと今さら田舎者のようなことを考えた。
そういえば冬爾もこの辺りで働いているはずだけど、あの男の見た目なら颯爽とこのビジネス街にも馴染むことだろう。
「映像翻訳?」
その夜、ほうれん草の白和えをもぐもぐと咀嚼しながら冬爾が顔を上げた。
「そう、受けるかちょっと迷ってて」
「あんまよくわかんねえけど、普段の仕事とは勝手が違うってこと?」
「簡単に言ったら小説家と脚本家の違いみたいな感じかな、想像つく?」
「あー…、なんとなくだけど把握した」
それで?と冬爾が続きを促す。
「初めての試みだから若干二の足を踏んでて」
「意外と小心者だよな、寧子って」
「そうなの、でも正直若者の活字離れが進んで出版業界って昨今厳しくてね、それに比べて映像の方は動画配信サービスの台頭も目覚ましいじゃない?」
「マーケットとして将来有望なのはむしろ映像翻訳の方ってことか、なら余計早めに手ぇ出しといた方がいいんじゃねえの」
「でも不安、もう若くないのに失敗怖い」
「何言ってんだ馬鹿」
呆れたように眉を顰めた冬爾が、手近にあったビールに口を付ける。
私はもそもそとチキン南蛮を口に運んだ。
「俺らまだまだ仕事の上じゃ"未熟者"だよ、今のうちに免疫つけとかねえと、それこそ将来こけた時に取り返しのつかないような大怪我するぜ」
「…冬爾は絶対やれって言うと思った」
「言ってほしくて相談したくせに」
「全部お見通しかあ、さすがわかってるね」
私は昔から本の虫で、文学作品に対する知識や造詣は深い自負があったけど、映像作品となるとそうはいかない。
自分にとって得手ではないフィールドでの戦いを挑みに行くことに対する躊躇いを、冬爾ならきっとくだらないと一蹴してくれると思っていた。
こういう冬爾の前向きさやストイックさには、本当に頭が下がる。
私も見習わなければ。
「来月は忙しくなるよ、『嵐が丘』の締め切りとも重なるの」
「飯作るの大変だったら無理しなくていいよ」
「ごめんね、また相談するかも」
「あ、そうだ俺さ」
急にお箸を置いて、冬爾が質の良さそうなビジネスバッグを漁る。
「これ健康診断結果、今日届いてさあ」
「なんでこんなの私に見せるの?」
「コレステロールとか血糖値とか、俺見た目と年齢の割りに高かったんだけどさ、ちゃんと正常値まで下がってたのよ」
「ほんとだ、判定CからAに戻ってる」
「多分これ、寧子のお陰だなあと思ってさ」
ありがとな、と照れ臭そうにはにかんでいる冬爾に、思わず笑った。
照れどころがいまいちわからない男である。
「冬爾の身体の大半は私の手料理で出来てるのかと思うとちょっといい気分ね」
「なんかそれちょっとエロいな」
「え、そう?その感性はよくわかんない」
くだらない話をしながら食事を再開する。
ぺろりと料理を平らげた冬爾の分も一緒にお皿を洗いながら、明日後藤さんに連絡しなきゃなあと考えていると。
「寧子、見合いすんの?」
デスクの上に放置したままだったお見合い写真を見つけたらしい冬爾が、にやにやとしながらキッチンまで歩いてくる。
「人の私物、勝手に見ないでくれる?」
「だってデスクの上にこれ見よがしに置いてあるからツッコミ待ちかと思って」
「なわけないでしょ、ああ、そっちの連絡も父親にしないとダメなの忘れてた…」
「会ってみねえの?」
「もう週末に会って来たのよ」
お見合い相手は父の会社の関連企業の社長さんのご子息で、所謂御曹司というやつだった。
「御曹司!さすがレベル高ぇな」
「まあね、素敵な人だったわよ、物腰も柔らかくてハンサムでスマートで」
「高評価じゃん、まさかこのまま結婚?」
「私が結婚したら寂しい?」
泡だらけのスポンジでお皿を擦りながら冬爾を見上げれば、うーんと考えている。
「まあちょっと寂しいかな、うん」
「…素直に返されても反応に困るんだけど」
「だったら聞くなよ、で?」
「残念ながら行き遅れは継続です」
お見合い相手は、申し分ないどころか私なんかにはもったいないような人だった。
ワシントンの大学でマーケティングの博士号を取った秀才で、見た目だってハンサムで、将来はお父様の後を継いで社長の椅子に座るのだろう。
だけどそんな人だからこそ、向こうにだって譲れない条件と言うものがあるのだ。
「奥さんには家庭に入って自分を支えてほしいんですって」
「あー、専業主婦希望ね」
「趣味程度に働く分には構わないけど自分の予定に合わせてもらえないのは困るのよ、それで私は条件に合致せず」
「色々難しいんだな、お見合いってのも」
「お嬢様も意外と苦労してるの」
三十歳を迎える前になんとしても娘に素敵な相手を!と躍起になっている両親からは再三アプローチがあって、最近食傷気味だ。
今回はどうしてもと無理やり押し切られて日程を設定されたので、そもそも断るなんて選択肢すらなかった。
食器を洗い終えた私は乾燥機のスイッチを入れて、まだ横に居座って相手の経歴を読み込んでいる冬爾を部屋に押し戻す。
「でもまじで優秀だなこの人、すげえ」
「まあ将来社長夫人する自分の妄想は散々楽しませてもらったけどね、そしたら冬爾に文句言われずブランド品も買い放題だし」
「もう来年の確定申告一緒にしてやんねー」
「あ、ウソウソ今のなし!」
甘えるように冬爾に抱きつくと、片手だけで雑に頭を撫でてあしらってくる。
「そんなに優秀なの?すごい人?」
「この大学めちゃくちゃ賢いよ、多分世界中どこ行っても通用すると思う」
「…断るの惜しいかな?」
「相手の反応どうなの?」
「それが是非前向きに進めたいって」
「ちゃんとすれば美人だからなあ、寧子」
顎を掴んで色んな方向からまじまじと顔を眺めてくる失礼な冬爾にむっとしながら、お見合い写真を奪った。
そしてそのままデスクの引き出しに仕舞う。
「はいもうこの話は終わり!」
「仕事頑張るって決めたばっかで専業主婦に未練なんか残したくないもんな?」
「全部言わないでよ!そういうのは行間の余白に残しとくもんなの、この唐変木!」
「はいはい」
冬爾は軽く笑って、私を抱き寄せる。
首筋に吸い付くようにキスをされて、背筋を甘い震えが駆けた。
「…何よ、ちょっとは妬いてくれたの?」
「妬いてほしいの?」
「最近誰も縛ってくれないで自由すぎるからたまにはそういうのもいいかな」
「束縛されたいタイプ?」
「うん、多少だったら嬉しいタイプ」
「全然わかんねえ」
顔をしかめながら、冬爾が服を脱がせてくる。
私は冬爾の緩んだネクタイを解いた。
「だって愛されてるってことでしょ?」
「愛情表現が相手を縛るって歪んでるだろ」
「なら冬爾は束縛しないの?」
「俺はする」
「は?」
何それ。
清々しいほどのダブスタを、冬爾は恥ずかしがる様子もなく晒していて、呆れた。
「だって俺は歪んでるし、する」
「なのに相手が束縛したらダメなの?」
「嫌だね、自分が歪んでる分、相手は素直で純情な子がいいの」
「最低なのに何故かそういう自分勝手な男がモテるんだよねえ、ほんと理不尽だと思う」
「俺ってモテんの?」
「その自負があるくせにとぼけんな」
えいっと冬爾をベッドに押し倒した。
その上に跨がって清潔なワイシャツのボタンを外そうとしたら、不意に身体が持ち上がる。
「俺、上に乗られんの嫌い」
「たまには私だって責めたりしたい」
「嘘ばっか、寧子は責められんのが好きだろ」
「私だってこう見えてテクニックが」
「うるせえ」
会話するのが面倒になったのか、場所を入れ替えるようにベッドに沈められ、強引にキスで口を塞がれた。
素肌を滑り降りてゆく指が順々に私の感じる場所に寄り道して、どろどろに溶かしてゆく。
私の身に付けているものは下着まで全部剥ぎ取るくせに、冬爾は私が外したシャツの第二ボタンまでしか乱れていない。
不公平だと手を伸ばせば、それを絡め取られてシーツに縫い付けられる。
中心の泉に冬爾の武骨な指が埋められた。
的確に官能的な刺激をもたらす指に、冬爾の首にしがみつこうとしたら、それさえ許してもらえない。
そのままうつ伏せにされて顔を枕に押し付けられながら、引き抜かれた指の代わりに冬爾の爛れた熱の塊が宛がわれた。
「は―…ぁっ!――…冬爾…」
「ほら、責められて感じてる」
くすくすと嘲るような笑い声が耳元で零れる。
冬爾はきっと、もう見慣れたあの肉食獣のようにぎらついた目で、私を見下ろしているに違いなかった。
お腹の下に枕を噛ませて、冬爾は後ろから激しく私を揺さぶる。
身体の奥から突き上げてくる真っ白な衝撃。
甘い毒が隅々まで巡る。
中途半端に開いた口からこぼれる音は、最早まともな言葉など形成していなかった。
もう夜は涼しくなってきたからと開けた窓から近隣に自分の情けない声が聞こえたらどうしようと、自分の手を噛んで耐える。
項垂れる私を抱き起こして自分の上に乗せた冬爾は、もう許してと言う制止の声も聞かずにまたそれを中心に穿った。
冬爾は、未だに服を着たままだった。
良いスーツが汚れてしまうと、的外れなことが頭をよぎる。
涙で滲む視界に映った冬爾は。
愉悦に顔を歪めながらも、どこか余裕のない表情で私を見つめていた。
「寧子、これやるよ」
お風呂から上がってきた私に、冬爾が鞄から何か出してきた。
茶色い包みに赤いリボン。
長方形の小さな箱は、とても軽かった。
「え、何これ?」
「まあ普段世話になってるお礼も兼ねて」
「…それって下の世話の事?」
「女がそんな下品なこと言うんじゃないの」
「だって」
情事の後しばらく動けなかった私を置いて、冬爾はさっさとお風呂場に消えて行った。
さすがにアフターケアが雑過ぎない?と立腹気味に私もシャワーを浴びて帰って来たところだったから、ちょっと刺々しくなったのだ。
「貰い物の横流し?」
「違ぇよ、俺から寧子宛のプレゼント」
「…嘘、まさか誕生日?」
「言って来ねえから忘れてんのかと思ったわ」
今日、9月16日は私の誕生日だった。
一人娘を溺愛している両親から未だに毎年きちんとプレゼントとお祝いの電話が来るので、忘れることはない。
でも、今さら両親以外の誰かから祝われるとも思ってなかった。
「…そんなの自分から言うわけないじゃない」
「まあ大したもんじゃないけど」
「空けてもいい?」
「もちろん」
中身はブックカバーだった。
茶色いシンプルなカバーは、使い込むほど手に馴染みそうな柔らかい革素材で、とてもセンスが良い。
「…どうしよう、めちゃくちゃ嬉しい」
「そりゃあ良かった」
「でも怖い、何なの?どういう風の吹き回し?私のこと口説こうとしてるの?」
「そんな可愛くないこと言うなら没収」
「嘘です嘘!嘘です!」
私からカバーを取り返そうとしてくる冬爾から逃げるように部屋の隅に寄った。
もちろん本気で取り上げるつもりはなかったらしい冬爾は、小さく微笑んでダイニングの椅子に腰を降ろす。
「普段飯作ってもらってるお礼だよ、まあ健康診断の件も重なったから」
「よく誕生日覚えてたね」
「俺、基本1回聞いた数字忘れないから」
冬爾はそう言って煙草に火を点けた。
細く吐き出されたそれは吐息の軌跡を辿って、ふわりと散る。
「ありがとう、大事に使うね」
「おう、そうしてくれ」
「でも今年の冬爾の誕生日何もしてないのにごめんね、来年は私もお祝いするから…」
「俺は別にいいよ、今さら自分の誕生日なんか来てもなんも思わねえんだから」
「ダメです、私の気が済まない」
「あっそう」
冬爾はのんびりと頬杖をついた。
私は包みを大事にデスクの上に置いて、冬爾のところに抱きつきに行く。
「寧子は素直に喜ぶから贈り甲斐があんな」
「誰でも贈り物は喜ぶでしょ」
「まあそうだけど、なんか寧子の喜び方って尻尾振ってんの見えそうで」
「だって嬉しいもん、ありがとう」
「どういたしまして」
煙草臭い唇に軽いキスをした。
笑う気配とともに、冬爾は私の頭を撫でる。
冬爾の誕生日は2月だ。
バレンタインデーだから覚えている。
この朴訥とした男がそんな愛に溢れた日の生まれなんてと去年散々揶揄ったのを思い出して、今さら笑みが込み上げた。
「来年の誕生日は期待して待ってていいよ」
「はいはい」
冬爾は興味なさげに煙草をふかしている。
私はその横顔を眺めながら、何を送れば喜ぶかなあと、随分気の早いことを考えた。
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