『夢列車の旅人』 ~過去へ、未来へ、時空を超えて~ 【新編集版】

(8)


『引継ぎを済ませて6時5分に店を出た。
 その瞬間、店の前の道路を赤いスポーツカーが走り過ぎた。
 そのカッコ良さに目を奪われた
 憧れの車、BMWのZ4(ズィーフォー)だった。
 走り去った方をしばらく目で追ったが、その姿が視界から消えると、道路の反対側を見上げた。
 すると、3階の窓から半身を乗り出して彼女が手を振っていた。
 あの真っ赤なコートを着て、手を振っていた。
 俺は胸の前で小さく手を振ってから信号のある場所へ歩いて行った。

 信号が青に変わった。
 横断歩道を渡り終えて3階を見上げると、まだ手を振っていた。
 自分のことをこんなに待ちわびてくれる女に出会ったことはなかった。
 何故か急に照れ臭くなって視線を外した。

 建物を入った所に郵便受けがあり、301号室と記されたプレートの下に彼女の名前があった。サインペンで書いた冴島伊代のちょっと丸っこい感じが彼女にピッタリだと思った。
 エレベーターを探したが階段しかなかった。古いビルのせいだろうか、それとも予算がなかったのだろうか、そんなことを考えながら階段を上った。

 301号室のドアの前に立ち、一度深呼吸をしてからチャイムを押した。
 直ぐにドアが開いて、彼女が笑顔で迎えてくれた。
 俺は少し頭を下げて中に入った。
 彼女が飛びついて……くるはずはなかった。
 その代わり、俺の手から荷物を取ろうとした。
 俺は左手を小さく横に振った。
 重いギターケースを彼女に持たせるわけにはいかない。

 靴を脱いで、用意してくれていたスリッパに履き替えた
 短い廊下の先に6畳より少し広そうな部屋があった。
 部屋の中は予想と違ってシンプルだった。
 きれいに片づいてはいたが、ベッドと机とノートパソコンとプリンターとテレビとラジカセとプラスチック製の衣装ケースと背の低い本棚が静かに佇んでいるだけだった。
 しかも、すべて黒もしくはグレー系のモノトーンだった。
 女性らしいパステルカラーのものはほとんどなかった。

「寒い?」

「少し……」

 俺はギターケースを持って突っ立ったまま答えた。
 ふと見ると、窓の右上に設置されたエアコンは冬眠しているようだった。

「掛けて」

 ベッドに座るように促された。
 ギターケースを床に置いて浅く掛けると、ふわっと女の匂いが鼻まで届いた。
 すると、彼女が下着だけで寝ている姿が妄想された。
 一気に気持ちが昂ったが、「コーヒーでいい?」という彼女の声で妄想が途切れた。
 即座に顔面を真面目にして頷きを返した。

 彼女は台所へ行き、お湯を沸かし始めた。
 引き戸が開きっぱなしになっていたので彼女の姿がよく見えた。
 彼女はマグカップの上にドリップの容器を置き、ペーパーフィルターをセットして、コーヒーの粉を入れた。
 沸いたお湯が落ち着くのを待ってから粉の上に少量を垂らした。
 ガス抜きのためか、20秒ほど蒸らしてから再びお湯を注ぎ始めた。
 中心部分から〈の〉の字を書くような感じでゆっくりと注いでいった。

「ブラックでいい?」

 はい、と返事をしそうになったが、首を振って別の言葉を発した。

「砂糖とミルクをお願いします」

 立ちっぱなしで仕事をしていたから糖分を摂りたかった。

「はい、どうぞ」

 トレイにマグカップとスプーンとシュガースティックと小さなミルクポットがあった。
 受け取ったトレイを膝の上に乗せ、シュガースティックを破って半分量を入れて、スプーンでかき混ぜた。
 それからミルクを少量垂らして色の変化を見た。
 もう少し垂らした。
 いい感じになったので、ひと口含んだ。
 甘さとマイルドさが丁度良い塩梅だった。
 飲み込むと、喉から食道へ、そして胃へと温かさが落ちていった。
 なんとも言えない幸せな気分になった。

 彼女が自分の分を持って部屋に戻ってきた。

「いつもはブラックなんだけど、今日は砂糖とミルクを入れてみようかな?」

 マグカップを俺の方に差し出した。
 俺がそれを受け取ると、彼女は俺のマグカップを持って口に運んだ。
 俺が飲んだところと同じ場所に口を付けていた。

 間接キッス……、

 俺は目が点になった。

「おいしい」

 彼女が目を細めた。
 本当においしそうな表情だった。
 それを見ていると、まるで自分が褒められたようで嬉しくなった。
 幸せな気分で彼女のマグカップからひと口飲んだ。
 苦かった。
 すぐさま砂糖とミルクを追加した。

「まだ寒い?」

「うん、少し……」

「暖房入れるね」

 彼女がリモコンの運転ボタンを押すと、本体のランプが付いた。
 しかし、エアコンはうんともすんとも言わなかった。
 壊れているのかと思ったが、いきなり物凄い音がして本体が揺れたように感じた。
 冬眠から無理矢理叩き起こされたことに腹を立てているような不機嫌そのものの音だった。
 すると、かなりの風量で暖気が吐き出されてきた。
 彼女は慌てて風量のボタンを押し、〈自動〉から〈静風〉に変えた。
 音も風量もおとなしくなった。

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