『夢列車の旅人』 ~過去へ、未来へ、時空を超えて~ 【新編集版】

(19)


 4日後、新宿のライヴハウスの楽屋に名刺を持った男たちが現れた。
 レコード会社のディレクターだった。
 余りに反応が速いので驚いたが、チャンスが飛び込んできたのは間違いなかった。
 名刺を受け取った俺の心臓は早鐘を打ち始めたが、それは他のメンバーも同じようで、演奏する前から顔が紅潮していた。

 オープニングから『Rock`n` Roll OverNight』と『Break Through』を続けて演った。
 会場の盛り上がりは半端なく、最後列に陣取っているディレクターたちを驚かすのに十分すぎるものだった。
 そのせいか、その日のうちに俺たちの獲得合戦が始まった。

 その後、すぐに3社から契約条件が出された。
 その中で最も契約金が高く、バックアップ体制が整っているレコード会社を選ぶことにした。
 それは千代田区にある会社だった。
 総武線の市ヶ谷駅から見える黒い変形のビルの中で契約を交わした。
 外に出ると真っ青な空が俺たちを祝福していた。
〈前途洋々〉という言葉が脳裏に浮かんだ。

 彼女の待つ部屋に急いで戻った。
 契約をしてきたことを伝えると、飛びついてきて、「おめでとう」と「良かった」を何度も発した。
 俺は「君のお陰だよ」と感謝の言葉を伝えた。
 すると、〈幸福絶頂〉という言葉が頭をかすめた。
 ところが、絶頂を超えた更なる喜びが俺を待っていた。
 彼女の口から予想もしていなかったことが告げられたのだ。
 俺は驚きの余り開いた口が塞がらなかった。
 目ん玉が飛び出すかと思うくらい瞼が開きっぱなしになった。
 彼女は「できたの」と言ったんだ。
 小さな命が彼女のお腹の中に芽生えていた。
 目と口を大きく開けたまま涙が零れてきて、口の中にしょっぱい水が流れ込んできた。
 すると契約のことなんてどうでもいいくらいの喜びが俺を包み込んだ。
 デビューと妊娠という二つの贈り物を手にして舞い上がってしまった。
 すると、〈人生最良の日〉という言葉が頭の中で踊り始めた。

 翌日、なけなしの貯金を下ろして指輪を買った。
 まだプロポーズをしていなかった。

 その夜、彼女をライヴ会場へ呼んだ。
 最前列の中央席を確保していた。
 オープニングで彼女の大好きな曲のイントロを爪弾いた。
 レッド・ツェッペリンの『Stairway to Heaven』
 ギターのアルペジオにエレキピアノの音が重なると、俺は弾くのを止めて、スタンドにギターを立てかけ、アンプの上に置いていた小さなケースを持った。
 ピアノ演奏だけをバックにステージから客席へ下り、彼女の前で立ち止まった。
 右膝を床に付けて(ひざまず)いた。
 右手に持った濃紺のリングケースを左手で開け、シンプルなデザインのプラチナリングを取り出した。
 彼女の左薬指にはめると、リングに大粒の真珠が落ちた。
 それを合図にしたかのように『ウェディングマーチ』の演奏が始まった。
 シーンと静まり返っていた会場が一気に息を吹き返した。
「ブラボー」という声と割れんばかりの拍手が彼女と俺を包み込んだ。
 彼女の目から幸せの涙が流れ続けた。

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