『夢列車の旅人』 ~過去へ、未来へ、時空を超えて~ 【新編集版】
(23)
東京に戻った俺がバンドに復帰することはできなかった。
精神面だけでなく肉体的な問題を抱えていた。
事故直後に痺れていた左腕が回復しないのだ。
体調が戻ったあとも痺れ続けていた。
筋や神経が痛んでいるわけではないのに痺れが取れないのだ。
医者は精神的なものから来るのかもしれないと言った。
どちらにしても肘から下が痺れて感覚が麻痺していた。
そのせいで指が思うように動かせなかった。
しかしそれはギタリストにとって致命的とも言えるものだった。
それくらい左手の指は大事なものなのだ。
コードを押さえるのも単音を押さえるのも左手の指で、ピックを持つ右手の指がどんなに速く動いても左手の指が動かなければ速弾きはできない。
左手の指を思うように動かせないのはギタリストにとって死を意味することと同じなのだ。
そんな状態の中、彼女の家族が荷物を引き取りに来た。
彼らが出て行くと、ガランとなった部屋に一人で取り残された。
その上、賃貸契約を解除されてしまったから、ここに住めるのは月末までだった。
新たな契約をしようにも、無職になった俺にその金はなかった。
ギターとアンプとラジカセを売り払った金と最低限の荷物を持って、契約最終日に部屋をあとにした。
レコードとCDは親身に面倒を見てくれた新宿のライヴハウスのオーナーに預かってもらった。いつか取りに来るからと言い残して、東京を脱出した。
東海道線を各駅電車に乗って西へ下った。
いろんな所で簡易宿泊所に泊まりながら日雇いの仕事をした。
金ができると酒と女に使った。
それを繰り返して浜松に辿り着いたが、疲れ果てて生きる気力がなくなっていた。
浜名湖で死のうと思った。
素面で入水自殺する勇気はなかったから、湖畔の居酒屋で酒を浴びるように飲んだ。
意識朦朧の状態で湖に身投げするつもりだったからだ。
でも、思う通りにはいかなかった。
有り金全部を飲み干して立ち上がろうとしたら足が立たず、床にぶっ倒れて動けなくなった。ゲロをぶちまけたまま意識を無くしたらしい。
気づいたら畳の上で寝ていた。
居酒屋の座敷で、誰かが介抱してくれたらしい。
ふらついて立ち上がることができなかったので壁にもたれて座っていると、年配の女性が水を持ってきてくれた。
女主人だった。
昨夜は大変だったらしい。
何人かの客に手伝ってもらってやっとこさ座敷に寝かせたと思ったら、むくっと起きて、「死ぬ~! 死ぬ~!」と何度も叫んで暴れたのだという。
ほとほと手を焼いたと思い切り首を横に振られた。
非礼を詫びると、事情を訊かれた。
問われるまま話すと、何も言わず耳を傾けてくれただけでなく、「大変だったね」と慰めてくれたが、「でも命あっての物種だからね」と諭された。
それから誰かに電話して何かを頼んでいた。
最終的にその人の伝手で今の仕事をすることになったが、俺は死に損なって空っぽの人生を続けることになった。
それからのことは端折る。
紙が残り1枚になったのでビーちゃんに頼みたいことだけを書く。
現世から逃れて過去で生きることを決断した俺の最後の願いを聞き入れて欲しい。
同封した写真をイギリスへ持って行ってもらいたい。
レッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボ―ナムの生家のあるレディッチという街だ。
そこに彼の銅像がある。
その足元にこの写真を置いてきて欲しい。
そのための費用として通帳に僅かばかりの金を入れておいた。
ライヴハウスのオーナーに預かってもらっていたCDとレコードを彼が高く買ってくれた上に、浜松でコツコツ買い貯めたCDとレコードもそこそこの(・・・・・)値段で売れたので、多分、往復の旅費とホテル代くらいにはなると思う。
この金でレディッチへ彼女を連れて行って欲しい。
結婚することも子供を産むこともできなかった彼女の無念の魂を鎮めるためにも、なんとしてでも連れて行ってもらいたいんだ。
ビーちゃん、頼む。
俺の望みを叶えてくれ。
彼女と、そして抱くことのできなかった俺たちの子供の魂をレディッチに運んでくれ。頼む‼』
そこで長い手紙が終わっていた。
読み終えると、どんよりとした鉛のベールに包まれたようになり、なんとも言えない哀しみに襲われた。
どれほど辛かったか……、
唇が震えてきて、しばらく止まらなかった。
沈うつなまま手紙を置き、通帳に挟まれている写真を手に取った。
1枚は彼女のお腹が主役になった写真だった。
妊娠がわかって狂喜乱舞した松山さんが撮った写真に違いなかった。
もう1枚はライヴハウスで松山さんが彼女にリングを嵌めている時の写真だった。
スタッフが撮った写真だろうか?
彼女も松山さんもぐずぐずに涙を垂れ流していた。
その写真を見ると泣けてきた。
我慢していた分、風呂の栓を抜いた時のように涙が流れだした。
右手を口に当てたが声を止めることはできなかった。
赤ん坊のように声を上げて泣いた。
疲れ果てて眠るまで泣き続けた。