世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
湊が帰ってきたのは、夜も更けかけた頃だった。
靴音がやけに重たく響いたあと、玄関から一言も発せずにリビングに入ってきた。

創は、新聞を読むふりをして、その様子をそっと観察していた。
息子は、まっすぐ自宅のピアノに向かうと、蓋を開け、鍵盤に手を置いた。

深く息を吸って、ぽつり、ぽつりと音を鳴らす。
だが旋律にならず、指先は途中で止まり、ただ黙って震えていた。

「……湊」

創はゆっくりと声をかけた。
「どうした? 調律、失敗でもしたか?」

問いかけに、湊は何も返さない。
ただ、顔を伏せたまま、肩が小さく揺れている。

鼻をすする音が聞こえた。

――ああ、泣いている。

創は新聞を畳み、無言のまま息子のそばへ椅子を引いた。
何も言わず、ただその沈黙を待つ。
この子は、小さい頃から、辛いことがあるとまずピアノに向かう。
音にできるほど強い感情なら、自分の言葉も出てくる。

しばらくして、ようやく湊がぽつりと口を開いた。

「……璃子さんが、結婚するって」

創は、一瞬で背筋が伸びるのを感じた。
「……誰と?」

「篠原恭介」

その名前を聞いた途端、創は思わず顔をしかめた。
「なんで……よりによって篠原なんだよ。あいつはやべーだろ」

湊は力なく笑い、言った。
「親が決めたらしい。彼女、家出して……エアコンも風呂もないアパートに入って、でも熱中症で倒れて、家に戻されて……」

そこまで言うと、言葉が詰まった。
数秒の沈黙。
それでも、話を続けようとする。

「さっき……少しだけ話して。無理して笑ってて……ほんと、見てられなかった」

創は静かに頷いた。

「……確か、あの両親も見合い婚だったな。
自由を知らずに育った人間ってのはな……人を尊重する感覚が育たねぇんだよ。
自分が正しいと思ったら、相手をねじ伏せるのが愛だと勘違いする」

湊は、震える手で目元をぬぐいながら、ぎゅっと唇を噛みしめた。
その姿が、子供の頃に怪我をして泣いていたときと重なる。

創は、迷わず息子の肩に手をまわし、そっと引き寄せた。
湊は抵抗もせず、父親の胸元に顔を埋めた。

「……お前、璃子ちゃんのこと……好きだったんだな」

湊は言葉を返さなかった。
だが、うなずいたように見えた。

創は、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じながら、ただ黙って背中をさすった。
親として、職人として、男として――何もかもが、どうにもできない夜だった。

それでも。
せめて、今この瞬間だけは、
息子の感情を、全て受け止めてやりたかった。
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