世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
創は、湊の背中を静かにさすりながら、ふと懐かしむように口を開いた。

「……お前に話したことなかったけどな。
俺も昔、似たようなことがあったんだよ」

湊は、父の胸に顔を伏せたまま、小さく反応する。

「母さんのことだ。春美な。……お前の自慢の母ちゃん」

湊は、わずかに身じろぎをした。

「春美にはな、もともと婚約者がいたんだ。親が決めた相手でな。
その男、名門の家柄で、母さんの家も音楽大学の学長の家柄だったから、まぁ釣り合いはとれてたんだよ」

創は、懐かしげに鼻を鳴らした。

「でも俺、春美に惚れてさ。完全な一目惚れだったな。あの人、冷たそうな顔してんのに、笑うとえらく優しくなるだろ。あれにやられたんだよ」

湊は、まだ涙を拭いながらも、父の顔をちらりと見た。

「で、俺、猛烈アプローチした。あの頃は若かったしな。母さんがその婚約者と入籍するっていう話を聞いた時、もう最後だって思って、ちょっと待った!って、言いに行ったんだよ。堂々と」

「……映画かよ」

「ほんとだって。母さんも困ってたけど、たぶん向こうのこと、本気で好きじゃなかったんだろうな。俺の話、ちゃんと聞いてくれて……それで婚約破棄して、俺と結婚してくれた」

湊は、目に涙を浮かべたまま、ぽつりと呟いた。

「……父さんと同じにしないでよ」

「同じだろ!」

創はびしっと言い切る。

「相手に婚約者がいようがなんだろうが、関係ねぇ。しかもお前、璃子ちゃんが篠原のこと好きでもないって知ってるんだろ?だったら――全然チャンスあるだろうがよ!」

湊は視線を落としたまま、唇を引き結ぶ。

創は、にやりと笑いながら言った。

「それに、お前のほうが圧倒的にかっこいいしな。どう考えても篠原よりいけてる。ピアノも職人技もあるし、性格もいいし、俺が女なら即惚れるわ」

「……父さん、それただの親バカ」

「親バカ上等だ。しかもな、連絡先も知ってる。信頼関係もある。こっちは利があるんだよ、湊」

湊は思わず笑ってしまい、また涙がぽろりと落ちた。

「……なんかもう、父さんが言うと何でも正しく聞こえるな」

「そうだろ?職人歴三十年は伊達じゃない」

創は、軽く肩を叩いた。

「湊。後悔するな。
好きなら、好きなまま黙って見送るなんて、やめとけ。
それが、本当に優しいってことじゃない」

その言葉に、湊はゆっくりとうなずいた。

胸の奥で、何かが確かに動き始めていた。
諦めじゃなくて、まだ何かできるかもしれないという希望。
そして、それを信じられるだけの、父の背中。

湊は、もう一度深く息を吸って、そっと目を閉じた。
この夜の言葉は、きっとずっと忘れない。
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